2023.9.28
[2023.9月 飯能]
バタードがバタラーから離れられない理由としてもう一つ言及しておかなければならないのは,密室の中で繰り返し殴られた女性が抱く独特の恐怖心と無力感についてです。
自殺すると脅されて宗佑の部屋へ戻った美知留は,宗佑に携帯電話を奪われ,瑠珂の写っている卒業アルバムを焼き捨てる命令を拒絶することができません。大切なものを自分の手で葬り去らせるやり方は,カルト集団の洗脳の手口と重なっています。そして美容室も辞めさせられ,ついには宗佑の監視下にマンションの一室に幽閉されてしまいます。連絡の取れなくなった美知留の身を案じたタケルがどうにか宗佑のマンションを探しあてた時,傷だらけの美知留はぼんやりと動作緩慢に洗濯物を干しているところであり,救援に来たとわかっているはずのタケルを見て,助けを求めるどころか,怯えて部屋の中に逃げ込んでしまいます。
身体を震わせる美知留をマンションから連れ出して,宗佑から離れるように説得するタケルに美知留はたどたどしく語ります。
「毎日,ご飯作ったり,洗濯したり,アイロンかけたり,テレビ観たり・・・二時間おきに,彼から家電に電話が入るの」
(殴られたのは)「夕ご飯の買い物に時間がかかって彼が帰る前に家に帰れなかったの。あたしが悪いの,うっかりしてたんだから」
「多分これが一番いいの。これが一番だれにも迷惑がかからない」
すでに古典といえる,レノア・ウォーカーの「DVのサイクル理論」(9)を参照してみましょう。ウォーカーは,多くのバタード・ウーマン(BW)とのインタビューを通じて,BWたちの多くが一定の虐待サイクルを経験し,このサイクルの中で虐待的関係から逃れにくくなっていくプロセスを克明に記述しています。ストレス回避困難な環境におかれた動物は,次第にその環境から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象は,すでに米国の心理学者セリグマン(1967)により「学習性無力」として概念化されていますが,ウォーカーは,DV関係においてはこの「学習性無力」という機制を強化するもう一つの仕組みを指摘しました。
ウォーカーのいう虐待サイクルとは,「緊張の高まり(第1相)-「激しい虐待(第2相)」-「虐待者の悔恨と愛情の表明(第3相)」の3つの時期の循環のことです。このサイクルで重要なのは,加害者が被害者の前で懺悔し今後はやさしく振る舞うことを誓う第3相です。
激しい暴力を受けて傷ついた女性(BW)は,暴力が収まった後も恐怖心と無力感に囚われています。際限なく続く暴力であったら,BWは物理的に動けなくなり,ときには死に到ります。死なずに済んだ女性は,解離症状としての感情麻痺が冷静な思考を遠ざける可能性はありますが,自分がいる場所が牢獄であり,苦痛以外の何ものもないことに気づきやすいと言えるでしょう。
しかし第3相は,嵐の後の静かな凪をもたらし,謝罪する加害男性の姿の中に,泣きながら甘えてすがりついてくる子どものような無邪気さをBWは感知してしまうのです。困ったことにこのとき加害男性は自分の謝罪や悔恨を偽りのない感情だと確信しています。ここでBWは,往々にして,この哀れな男を理解し,癒やすことができるのは自分のほかにはない,見捨てることはできない,と考えることになるわけです。ここにおいて被害女性の自尊心は,一過性であろうとも,高揚するのです。
この第3相の時期にBWが示す寛容な態度は,加害男性に「許された」という甘えの感覚を呼び覚まします。それだけでなく,自分が暴力をふるった原因(パートナーが他の男性と言葉を交わしたり,笑顔を見せたり,友人とのパーティで帰宅が遅くなったり等々)をパートナーは理解し,今後は自分に暴力をふるわせないように振る舞うと約束してくれたという独善的な考えまで加害男性は抱くことになるのです。
新たな緊張の高まりは,加害男性の「またもや約束が踏みにじられた」という苛立ちと,「こんなに思っている自分の存在を蔑ろにするのか」という自己愛の傷つきを背景に加速します。
このように,ウォーカーの図式には,繰り返され,固定したDVというものは,単なる痛みと恐怖だけでなく,苦痛が去った後の満足と期待という契機が含まれています。二人の間に新しい関係が生まれるかもしれないという期待は,その直前の恐怖心が強力であったほど高まりやすいという逆説的なものであり,二人の間には自己愛の傷つきと充足が交代的に反復されているのです。こうした結びつきは,外傷性結合の一型であり,「外傷(トラウマ)への嗜癖」を生む土壌となります(5,6)。
こうした密室的な二人関係から脱け出すには他者の力が不可欠です。母-子の二人関係から父親を含む三者関係に耐え,適応していけるように成長していかねばならないからです。三者関係を想像できるということは,親密な二人関係を結んでいるパートナーの心の中に,自分とは別の重要な人も存在することを受容できるということです。そして大人の(成熟した)愛情とは,パートナーは自分とは違う自律的存在であることを十分に承認しつつ,状況に応じて頼り頼られ,補い合い支えあえる関係性を成立させる相互配慮的感情と言えるでしょう。
ホッグら(3)は,他者との親密化欲求と自立化欲求とがある水準の範囲内で柔軟に交代したり併存することが健康な対人関係の基本にあると前提した上で,共依存 codependence の対概念として対抗依存 contra-dependence というあり方を想定しています。彼らは,対抗依存とは,「感情を傷つけられることを防ぐために他者から遠ざかる行動傾向」と定義しています。生育期に情緒的満足が大きく損なわれていると,個人は生育家庭の構造に応じて共依存と対抗依存という両局の(しかし表裏の関係にある)対人関係パターンを硬直的に発展させると彼らは述べています。この際,愛情や安全感を獲得するために個人性を放棄するという方法,すなわち他者の欲求や要請に自己を同調させるべきだという近代において女性に強いられてきた性別役割が,共依存の女性との親和性を説明しているとも述べています。
ラスト・フレンズにおいては,美知留とタケルの対人関係の基本が共依存的であるのに対して,瑠珂と宗佑は対抗依存的と言えるでしょう。瑠珂は自己の性別に違和感を覚え,それを心の奥に秘め続けてきたことで,気に入らない人物には拒絶的態度を隠しませんが,その率直さや自己主張能力は,健康度の高い家族に育まれ甘えと親密さを十分に体験してきたことが可能にしているようです。一方宗佑が内心の対人不信感や厭世観を否認するかのように柔和な態度を前景にし,子ども保護という職業を選択したことは,かつて虐げられた自己への保護者役割を,立場を逆転させて代理的に実現する以外に自己救済の途がなかったからのように解釈できます。
英国の社会学者ギデンス(2)は,共依存症者を「生きる上での安心感を維持するために,自分の求めているものを明確にしてくれる相手を求めている人間」と規定し,同時に共依存的関係性の対極に「純粋な関係性」という概念を導入しました。
彼の言う純粋な関係性とは,「社会関係それ自体が目的となるような関係」のことです。つまり,経済的利益や性的満足などを得るために結ばれるものではなく,「互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び,さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしているとみなす限りにおいて関係を続けていく,そうした状況」を意味しています。言い換えると,それは,完全に平等で民主的な関係であり,性別やセクシュアリティに拘束されることなくあくまで双方の自由意思によって成立し維持されるような関係のことだといいます。しかしこうしたいわば究極の相互的関係性は,はたして彼の言うように,「現代においては婚姻という制度を介すことなく」,「自由に塑形できる(異性愛以外の)セクシュアリティの発達と対応して」,多様な親密関係の基本形態となりつつあると言えるでしょうか。
もう一度ドラマに立ち帰ってみましょう,シェアハウスで共同生活するメンバーはそれぞれに他者を求めつつ親密性への不信,不安,恐怖心を抱いています。時間と空間を共有しながらも,最初は互いに「一線を画す」ことを望んでいた男女が,恐る恐る自らの内に秘めた寂しさを共同空間に開示していくプロセスが描かれています。
ドラマの終幕,宗祐は自死の道を選び,放心した美知留はあてのない旅に出ていきます。さらにエリと小倉が結婚してシェアハウスを出て行った後,最終章で,瑠珂とタケルはもう一度美知留を探しあて,シェアハウスに呼び戻します。それぞれの形式で性と愛の領域の外傷体験を持つがゆえに性的関係には入り難い3人の男女と美知留(と宗祐)の子どもが形作る新しい「家族」は,節度のある親密性を確保し,奇妙にも,ギデンスのいう純粋な関係性というものが現出する期待を抱かせます。
このようなドラマが広く受け入れられるということはつまり,DV,ストーカー,デートレイプなど親密性を罠とした暴力が絶えない今日にあっても,ギデンスの言うような性的親密性や制度化された異性関係に縛られない真に相互的な関係性の重要性がわが国でも認識されるようになっていると言えるのかもしれません。
一般的にみて,動物における攻撃性が種や集団を保存する機能を優先的に含んでいる(4)のに対して,人間の示す攻撃性や暴力はすぐれて社会文化的な産物であり,規模の大小を問わず,関係を動かす戦略性を帯びています。異性関係の中で現れる暴力も同様に,社会的葛藤状況を解決しようとする性急で未熟なコミュニケーションの一方法と言えるでしょう。しかし,こうした暴力は何一つよいことを人にもたらさないということを,私たちは肝に銘じておかなければなりません。
パートナーに一方的に捧げられた幼児的・執着的な愛の誓いは,全く同じものを相手からも得られるはずだという特権を保証する根拠には決してならないのです。激しい感情表出や一途な態度が,たとえ感情の真実性だけは保証したとしても,それで暴力が正当化される根拠にもならないのです。
「愛していたら殴れない」-これほど単純な認識を私たちは加害者と被害者に伝えるのにいつも大きな努力を要するのです。
引用文献