2023.11.25
[清瀬市 上清戸 2023年11月]
理解を深めるため、20年以上前に筆者が関わったケースを、個人情報保護に留意してところどころ改変した事例について、参照してみましょう。
Aさんは30歳台の独身女性です。
日ごろ健康問題にとくに支障を感じていなかったAさんが食後の下腹部痛を感じたのは、X年3月でした。ちょうど翌月に会社の健康診断が予定されていたので、そのまま市販の胃薬等を服用して症状をしのいでいました。しかし健診日が近づくにつれて、痛みの程度や頻度は強くなるばかりです。健診日の3日前、腹痛とともに大量の下血を生じたために、Aさんはついに自ら救急車を呼んで、大きな病院の救急外来を受診せざるを得ないことになりました。
入院後、胃の内視鏡、大腸内視鏡、全身MRIなどの検査が行われ、入院2週間後には大腸癌と確定診断されました。残念なことに、卵巣やそのほかの臓器にも転移がみつかりました。さらには、腫大したリンパ節が尿管を圧迫していたために、水腎症も起こしていました。実は腹痛が生じる数か月前から、首のしこりと腫れ(リンパ節腫大)にAさんは気づきながら放置していたこともわかりました。
根治手術はできない進行がんでしたが、症状を少しでも緩和するために開腹手術を実施し、とりあえず食事を取ることや尿量を確保することができるようになりました。その後抗がん剤等による化学療法が開始されましたが、嘔気嘔吐などの副作用が強く現れ、化学療法は断念せざるを得ませんでした。その1か月後には腫瘍によるイレウス(腸閉塞)が生じ、不安・混乱状態に陥ったAさんを心身両面から支えるために、精神科医による併診(リエゾン治療)が行われました。さらにその1か月半後、Aさん自身、家族、治療担当者の3者を交えた十分な話し合いの結果、AさんはB病院のホスピス病棟へ転院してゆくことになり、その約1か月後に永眠することになりました。
精神科の医師や心理士がAさんに関わったのは、ほんの1か月半という短い期間でした。担当医は緩和ケアやサイコオンコロジーの専門的経験があったわけではなかったので、また、当時はがん病棟における緩和ケアのスタンダードマニュアルのようなものもなく、暗中模索のような心境でAさんのベッドサイドに日参したものです。
計20回に満たないかかわりは、次のようなやり取りから始まりました。
医師 | 今回はご自分で精神科受診を希望されたのですか。 |
Aさん | そうです。毎晩消灯時間になっても眠気がささず、「叫び出すほどの強い不安」に繰り返し襲われるようになったので。抗がん剤を始めてから激しい嘔気と嘔吐が続いて、このまま死んでしまうのではないかと怖かった。その時のことは半分くらいしか覚えていないが、深夜に、怖くなって大声で叫んでしまったように思う。 |
Aさんは長くは生きられないと知らされた進行がんの患者さんですから、大きな不安が生じても当たり前です。しかし、単に心理的な不安だけではなく、脳への転移や身体症状(意識状態や内分泌変化など)の表れとして、様々の精神症状が生じることもあります。脳のMRI検査を実施し、記銘力や意識障害の有無をチェックしながら、精神科チームは少しずつAさんの苦悩に近づいていきました。
最初にお聴きしなければならないことは、Aさん自身が自分の病気や置かれた状況について、どの程度理解し、今後自分がどのような経過を辿るか予測しているかということです。
幸いAさんは、多くの心身の苦痛にもかかわらず、自身の癌が治療困難であること、残された時間が短いことなど、ほぼ外科主治医からの説明をよく理解しているようでした。けれども、よく理解しているからこそ、強い不安、死への恐怖が心に強くのしかかっているとも考えられました。
痛みをコントロールするための鎮痛剤はすでに処方されていましたが、睡眠状況を改善するための薬や突発的な不安を緩和する薬も用意しました。
3回目の面接で、Aさんは睡眠導入剤や抗不安薬はそれなりに気を鎮めてくれると述べ、発症から現在までの状況を語ってくれました。
Aさんの語り
くすり(睡眠導入剤と抗不安薬)をのみ始めて、だいぶ落ち着いた。
入院して1か月頃に手術、せっかく食事を摂れるようになって、一時は退院の予定も決まったが、「小腸の詰まり」があったらしく、嘔吐。今日も緊急 CT。
その後抗がん剤治療を始めた。うまくいけば20か月くらい延命可能性があると説明されたから。
思い起こせば、腹痛が生じるずいぶん前から頚のリンパ節が腫れているのに気づいていた。そこから全てが始まった。4月から(進行がんと診断されて)人生が180度変わってしまった。卵巣や骨盤リンパ節に転移していることがわかり、stage IVということだった。おしっこが出なくなり、腎瘻をつくった。私の身体が、毎日がらがら音を立てて崩れていくようさった。残り時間は少ないみたいだけれど、食事を取れるようになりたい。でも3日前からまったく食べられなくなって、一挙に混乱した。できたら、退院したい・・・六本木ヒルズに来ている映画を見たかった。
親に負担をかけてつらい。最近は私の前ではこらえてるけど、親のほうが泣くんです。親を泣かせてしまっている・・・もういい年なのに毎日来てくれて。両親の方が倒れてしまうんじゃないか心配。
あとどれくらい時間があるか・・・怖いけど知りたい・・・でもやっぱり怖いかな・・・
まだこんな年なのになあと、どうして、と何百回も心の中で尋ねている。誰にだろう。神さまなんているのかなあ。でも、首の腫れを放っておいたのは自分だし・・・
高校出てからずっと今の仕事を続けてきた。まだ会社に籍はある。小さな会社だが、経理を任されてきた。信頼されて、やりがいを感じてきた。
面接が重なるたびに、Aさんは家族関係や生い立ち、仕事仲間との関係なども語るようになり、それらを総合的に評価するとAさんの精神状態と今後の経過は以下のように予測されました。
精神的ケアチーム内の議論を経て、筆者は次のようにAさんと接したいと、看護師を含むがん治療チームに説明しました。
Aさんが自身の苦悩や痛みを家族、医療者や友人たちに打ち明けることは迷惑かもしれないと考えることに対して―
精神科チームとしては、Aさんとの面接の後はカルテに記録を残すだけでなく、必ず看護スタッフとの短時間のミーティングを持って、その時々のAさんの心境や痛みの程度を知ってもらうようにしました。
Aさんの語り:治療内容と治療スタッフへの感情
この病院の先生や看護師さんたちは献身的で、何でもしてくれて、感動してしまう。胃液を3リットルも吐いたときは、看護師さんの胸を借りて大泣きした。でも抗がん剤の治療は怖かった。猛烈な吐き気に襲われた後は、医者は全部怖くて、『もう来ないで・・・』という思いだった。医者はいろんな管(点滴や尿道カテーテルなど)と薬を突っ込むだけだと、あのときは敵意を抱いた。今は・・・他の病院のことはわからないけれど、できるだけのことはしてもらっていると,今は思える。
医者の説明以上に、自分の身体の変化だけで、今どんなところにいるのか直感する。家に帰りたいけど、家で痛みや嘔気が出たらどうしようかと不安。家族も負担だと思うし。
Aさんの身体状況は悪化の一途を辿り、モルヒネ等の使用量も増え、ベッドサイドを訪れてもほとんど言葉を発することができない日が増えていきました。それでも、身体ケアの妨げにならない範囲で、Aさんが断らない限り、2日に一回は訪床を続けました。何回かは面会に来たご家族のお話を聞くこともできました。
Aさんはどこかで、「退院して六本木ヒルズに行くこと」はもうできないと悟り、痛みに耐えこれ以上「頑張る」のはもうやめたい、私はやれるだけやったのだからと思える瞬間がきたのでしょうか。B病院(緩和病棟)に移る日に見送った私たちに向けた表情はずいぶん柔らかなものに見えました。
ひとりの患者さんの経験を一般化することは慎まなければなりませんが、Aさんとのかかわりを通じて、これから先Aさんと同じような立場にある患者さんとのかかわりに際しては、次のようなこころの準備をしておくようになりました。
Aさんの逝去後に再訪した家族がその後の経過を教えてくれました。Aさんは緩和ケア病棟に移り、久しぶりの介助入浴、アロママッサージなどを受け、病院専属のchaplain(注)との面談を重ね、数日間の意識混濁期を経て家族の見守る中、静かに旅立っていったということでした。診断から半年間、Aさんが懸命に生きた姿は今でも忘れることができません。
注:chaplain(チャプレン)とは、教会・寺院に属さずに施設や組織で働くキリスト教系の聖職者(牧師、神父、司祭など)のことです。語源的には、それらの施設に設置されたチャペルで働く聖職者を意味しますが、宗教を持たない人、キリスト教徒でない人にもかかわり、聴き手として働きます。