ふじみクリニック

医療安全について(2)

2024.03.30


[清瀬けやき通り(ミモザとハクレン)2024年3月14日]

第1回(記事はこちら)

1.医療安全管理とはどういうことか,その対象はどのようなものか
2.医療安全管理は,理想と現実の架け橋である

第2回(本コラム)

3.医療安全管理の成否は医療者の志気(morale)に直結する
4.3種類の「危機管理」
1)リスク・マネジメント(RM)とクライシス・マネジメント(CR)
2)問題探索的・先見的危機管理(IM)

第3回

5.倫理綱領の策定・公開と説明責任:透明性と相互性を備えた率直な情報開示の重要性

第4回(最終回)

6.医療安全において用いられる用語の整理
1)有害事象(occurrence, sentinel event),過誤(error, mistake),過失(negligence)
2)医療水準(medical standards)
3)注意義務,安全配慮義務
4)予見可能性(predictability)
5)説明義務

おわりに
引用文献

3 医療安全管理の成否は医療者の志気(morale)に直結する

患者さんが病の完全な治癒を望むのは当然のことです。
そして,患者さんの健康回復,症状の消失を切望しない医療者もまた(筆者の知る限り)存在しません。

けれども,治癒への願いが患者さん-医療者間で一致していたとしても,その期待の大きさや実現可能性の評価は,双方の間で大きく乖離しています。推奨される治療の内容とありうる結果について,患者さんと医師が対話を尽くし合意に達した上で行われた治療であるならば,たとえ好ましい結果が得られなかったとしても,医師の側は「あらかじめ予想された結果の一つ」であると事後説明を加え,患者さんや家族はその結果をとりあえずは受け入れざるを得ないことでしょう。

受け入れざるを得ないと頭ではわかっていても,人(患者さんとその家族)を動かすのは理屈ではなく感情の力です。仮に医療者が正当なICを行っていたとしても,患者さんが死に至ったり,非可逆的な障害を残したりしたら,患者さん・家族はそう簡単に納得できるものではありません。診断は本当に正しかったのか,治療上のミスはなかったのか,担当医の技量は十分であったのか,さらには,新たな危険のサインを見逃してはいなかったのだろうかなど,様々の疑念に囚われることはやむを得ないことです。そこにわずかでも治療前後の説明の齟齬が看取されれば,その治療全体が不適切ではなかったかと疑心暗鬼となり,医療「過誤」の一つとして告発対象と目されることは,もはや日常的な事態と考えた方がよいでしょう。

医療事故訴訟,あるいはそれに繋がる患者さん・家族との関係のこじれを一度でも経験した医療者には多言を要さないでことですが,信頼関係がいったん破綻した患者さんやその家族との折衝に,それが将来立証されるか否かは問わず加害者の立場として臨むことは医療者にとってきわめてストレスフルな出来事であり,その後の診療姿勢に深い傷痕を残します。

そのような場で医療者は,過剰な,ときに謂れのないほどの批判の矢面に立たされることが稀ではありません。求められる医療水準からみて自らの医療行為に遺漏はないと確信していても,不幸な結果を招いた患者さんや家族の前では,良心的な医療者ほど言葉を失い,身を固くすることは避け難いのです。それを患者さんの側は過ちを認めた証拠だとしてさらに厳しく追及するかもしれません。しかし,そもそも私たち医療者の行うどのようなICでも,完全無欠なものではありえません。患者さんがかくのごとく強い猜疑心を抱かないためには,単にICに含まれる情報量を増やす努力では不十分であり,何にも増して,ICのプロセスで確かな信頼関係が構築されているか否かという点への反省が重要です。

医療事故およびそれに起因する訴訟が生じた際には,被害者と目される患者さんの権利の保護策が最優先事項です。しかし(故意の犯罪行為は別として)加害者の側に立たされた医療者を罰することを目的にするのではなく,今後同様の医療事故を予防することを第一の重要課題として双方が事故分析に協力する姿勢が求められています。

4 3種類の「危機管理」

上述のように,医療安全管理は,同時に「危機管理」でもあります。そして当然のことながら,危機が訪れて初めて策を講じるのでは危機管理とは言えません。

実際に危機(医療事故・過誤)が発生してしまった後の対応に費やされるコストは,事務的にも経済的にも感情的にも膨大なものとなります。危機発生前にリスクを予測し,予防策を講じて被害を最小限に食い止める方策を万全にしておくことは,医療機関の経営/運営にとって不可欠な重要課題です。

企業経営に範を取ると,このような危機管理は,Issue Management(IM),Risk Management(RM),Crisis Management(CM)の三者が時系列的・重複的に移行します9)

1)リスク・マネジメント(RM)とクライシス・マネジメント(CR)

後二者から解説します。
RMとは,認識されている個々のリスクが生じる可能性(つまりまだ起ってはいない困った事態)を予測してその回避策を講じること,すなわち日常業務の中で遭遇しやすい好ましくない出来事に繋がる要因を積極的に抽出し制御するための危機管理のことです。一般企業でいえば,為替変動や製品の故障などのリスクが一定の確率で生じることを織り込んで対応策を準備しておくなどの事項が該当します。

CMは二種に大別されます。一つは,事故,災害,地域紛争など,より大規模で予測困難な危機(crisis)を想定して,対応策を事前に計画しておくというものです。もう一つは,RMの対象として想定されていた好ましくない出来事が,事件,事故,災害等として実際に発生した場合の対応実務を指します。

2)問題探索的・先見的危機管理(IM)

RMとCMという二つの概念は比較的馴染み深いものですが,IM,直訳すれば「問題管理」というのは耳慣れない用語でしょう。IMとは,未経験の新しい課題や問題を予測し,それらに対する組織の対応策を考え実施すること,すなわち新たな問題発生に対する問題探索的・先見的危機管理といえます。

Cutlip10)によると,IMとは,問題の予見 → その分析 → 優先順位の決定 → 実施プログラムの選定 → 具体的行動が伴うプログラムの実施 → 効果の測定といった一連のプロセスを構成し,その組織体に潜在するリスクを最小限にすることを企図するものです。

どのタイプの危機管理にも,事前準備と事が起こった時の即応体制の構築の両方が盛り込まれています。とりわけIMでは,顧客(患者さん)の意識の変化,疾病構造や地域特性の変動,医療政策の動向などを予見しつつ,組織の業務体系をつぶさに見直す作業を通じて,今後対応必要性が高まると予測されるリスクを抽出・選別して準備する先見的な取り組みを意味しているわけです。

IMの好例としてあげられるのが,ジョンソン&ジョンソン(J & J)社の危機管理事例9)です。以下に概略を紹介しましょう。

1982年9月,シカゴで,同社の頭痛薬「タイレノール」にシアン化合物が混入し,死者が出たというニュースが報じられました。報道の直後,同社はその真偽を争うのではなく,速やかに自主回収を開始し,危険性に関する警告を広範に宣伝しました。莫大な費用をかけて同社が市場に出回った全薬剤を回収し,積極的なPR(Public Relation)活動を行ったことは,あるべきクライシス・マネジメントとしてマスコミからも評価されました。
詳細な調査により,結局この事件は製造および流通過程上の問題ではなく,「悪意による毒物混入」であることが判明した後,同社の評価はさらに高いものとなりました。

引き続き同社が実施したことが,IMの先駆的実例として語り継がれることになった取り組みです。この事件を受けて政府所管部署(食品医薬品局)が薬剤安全法制定に向けた動きを示したことに注目し,疑いの晴れた後も,J & J社は主力製品の一つであった同薬剤の販売再開を急がず,新法の内容を先取りした対応を取ったのです。すなわち,食品医薬品局が新たに課そうとした不正開封防止パッケージなどの規制を他社に先駆けて取り入れた上でタイレノールの販売を再開したのです。この新パッケージ導入はマスコミに(広告費を使わずに)大きく取り上げられ,同社の鎮痛剤のシェアは事件直後ゼロの段階を経て数か月後には事件前の8割にまで回復したというわけです。

J & J社の危機対応は,初動体制や情報開示の迅速さと透明性という点で見習うべき実例ですが,同社がこうした対応に加えて,そのクライシスから派生する新たな問題を先取りした先見的危機管理(IM)を発動させることができたのは,同社の経営哲学たる「我が信条(Our Credo)11)」を,全社的に普及させる社員教育が日頃から徹底されていたためだと考えられています。

(来月に続く)