ふじみクリニック

精神病と神経症はどう違うのか(少し詳しく知りたい人向けの記事です)

2021.09.28

 精神科医療に携わる人以外のふつうの人は「精神病」と「神経症」の違いをどのように理解しているでしょうか。メンタルヘルスや「こころの病」に関心が乏しい人なら、あまり区別しないかもしれません。「精神科を受診したり精神科病院に入院する人はみな『精神病』だろう」と思っている人は、今でも少なくないかもしれません。

 代表的な国際診断基準である、ICD(世界保健機構)とDSM(米国精神医学会)では、1980年代にすでに「神経症」という診断用語はすでに使われなくなりましたが、臨床現場では依然として用いられています。

 実際のところ両者の区別が難しい患者さんは存在しますが、本稿では両者の大まかな区別を解説したいと思います。

1 精神病と神経症の区別

 古典的には、ごく大まかに言って、「精神病は人格全体がおかされるが、神経症はそうではない」という区別が主流でした。しかしこの表現の中の「人格」とはどのように定義されるのか簡単には説明できません。また、精神病患者さんでも一から十までおかしなことを言ったりしたりするわけではないし、相手に相応に気を遣うことができる人はたくさんいます。その逆に、重症の神経症の患者さんやいわゆるパーソナリティ障害の患者さんの中にはその人格が大きくおかされている人がいるではないか、などの疑問もあります。

  精神医学(医療)においては、血液検査や脳画像検査ではっきりと診断可能な病気は、症状精神病、器質精神病など身体疾患の部分症状として精神症状が現れる場合や、ある程度の重症度を持つ認知症くらいのものですから、それぞれの病の境界はなかなか明確にはできないのです。

 それでも、誰もいないのに「天井裏から夜な夜な声が聞こえる」などといった幻聴や、客観的な証拠が皆無なのに「外国の諜報機関(CIAやKGBなど)が自分の家の中に監視カメラを取り付けている」など、わかりやすい妄想が語られる場合には、統合失調症(精神病の代表的疾患)の診断が強く示唆されますが、「~のような気がする」といった表現の場合には「心配性な人」、「過敏な性格」、あるいは「疑り深い人」などと評価されるかもしれません。
これらを区別するには、どんなことに注目すればよいのでしょうか。

2 精神病と神経症を区別する心のはたらき(自我機能)

次の3項目が重要です。

と言われても,もう一つわかりにくいかもしれません。

1)現実検討力

 少し硬い言葉で言うと、現実検討力とは、「観念表象と外的知覚、空想と外的現実とを識別し、主観的な印象を外界の客観的事実と照合、吟味する自我機能」ということになります。要するに、客観的現実をきちんと認識し、健康な他者と共有できるかどうかということです。知覚領域の現実検討力の喪失は「幻覚(幻聴、幻視が多く見られますが、嗅覚、触覚などあらゆる感覚に『幻』体験は生じる可能性があります)」として現れます。思考領域の現実検討力喪失は「妄想」として現れます。両者のもっとも短い定義は、幻覚とは「対象なき知覚」であり、妄想とは「訂正不能な非現実的確信」とされています。

2)発言や行動の了解性

 19世紀から20世紀初頭に活躍したドイツの哲学者ディルタイによって提唱され、精神医学では、同じくドイツのヤスパースによって彫琢された概念です。

 人の心や行動を「了解できる」とは、簡単に言えば、その人がそのとき置かれた立場や状況をしっかりと想像して、その人とまったく同じ状況に置かれたら、この私もその人のように発言したり行動する可能性があると実感できることです。そして、他者を了解しようとする振る舞い、つまりその人の身になって考えるという方法を「感情移入」と呼びます。

  例えば映画を観たり小説を読むとき、私たちはほとんど意識も努力もしないまま、登場人物の心の動きを追う作業を行っています。その人物の生い立ちや性格、張り巡らされた伏線を見て(読んで)、その人がそういう状況に置かれたらきっとこんなふうに感じたり、行動したりするだろうと推察します。物語のはじめの方では不可解だったその人の行動が、その後の展開の中で徐々に明らかにされた生い立ちや背景を知るうちに、「そういうことだったのか」と腑に落ちるような体験は誰でもあるでしょう。こうした「わかってくる」、「さもありなん」という心の動きが「了解できる」ということです。

 動機なき連続殺人という犯行が、犯人となった人物が子ども時代をひどい虐待環境の中で生き延びるためにが身に着けざるをえなかった攻撃性や他者を欺くスキルによって生じていたり、警察組織や社会への復讐行動であったりすることが判明することによって当初の「不可解さ」が消えてゆくこともまた、「了解」が深まったと言える体験と言えます。(もちろん、「了解できる」ことと「罪が許される」ことは全く別物です。)

  その「人となり」や生きてきた歴史、いま置かれた環境を十分に調べても、どうしても感情移入や追体験できない場合は「了解困難/不能」という評価になります。

3)自我境界/自他の識別

 ジークムント・フロイト先生の弟子にあたるドイツのフェダーンによって詳しく記載された概念ですが、これも思い切り省略して言うと、自己と非自己が、感情、思考、身体、行動等の各側面で区別可能かどうかということです。

  自分と他人なんて区別できて当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、例えば生まれて日の浅い赤ちゃんを母親がひとりで世話する場面を想像してください。赤ちゃんがもぞもぞ動くと、疲れて眠くても母親の方もぱっと目を覚まし、赤ちゃんがどんな具合か確かめるのが普通です。赤ちゃんが笑うと自分もうれしくなり、赤ちゃんが泣き止まないと母親の心も一緒に苦しくなります。こうした早期母子関係を赤ちゃんと母親の「共生関係」と呼びますが、それはお互い相手の心身の動きをわがもののように体験しているということです。こうした初期の母子共生関係では、自我境界が曖昧化していますが、これは異常なことではありません。

 成長して自分の意志というものが形成される年齢になっても、母が悲しいそぶりを見せると自分の方も悲しくなったり、怒っていると自分も怒りが湧いてくるような関係では、自他の境界が不鮮明だということになります。ただし、他者の感情を鋭敏に察知してその人をいたわるように振舞うことができる人については、相手の感情をあくまで自分とは別の人のものと認識している限り、「了解の射程が幅広く深い」「共感性が高い」人だと評価となり、自我境界の障害は問題視されません。

 わかりやすい病的な例としては、統合失調症の患者さんが「自分の考えが周囲に筒抜けになっている」とか、「自分の身体が誰か見知らぬ人に動かされている」などと訴える場合、前者では思考面の自我境界が、後者では身体面の自我境界が大きく障害されているということになります。

3 精神病と神経症の違い

さて、以上の三種の心のはたらきによって、精神病と神経症、そしてその中間位に位置するとされるいわゆるパーソナリティ障害を区別すると、概ね次の表のようになります。

  現実検討力 了解性 自我境界
神経症
  • ほとんど障害されていない
  • 知覚や刺激が自分の内からのものか外部からのものか識別できる
  • 言語的交流が保たれ、概ね了解可能である
  • 自他の区別ができる

パーソナリティ障害

(とくに重度の)
  • 強い感情負荷(あるいはストレス一般)がかかると、一過性に障害されることがある
  • 眼前の他者と過去に体験された他者像が混乱したり、不安が他者に投影されたりして了解困難な発言や行動が現れることがある
  • 強い感情負荷(あるいはストレス一般)がかかると、一過性に障害されることがある
  • 自己の感情や不安を他者に投影しやすく、自他の境界が曖昧化することがある
精神病
  • 大きく障害されている(幻覚、妄想など)
  • 了解困難または了解不能な発言や行動が現れやすい
  • 自他の区別ができないことがある(作為体験、思考伝播体験など)

 もちろん、短時間お話を聴いただけでは、精神科を専門とする医師にもどちらか断定できないこともあります。

  例えば、「天井裏に誰かがひそんでいて、自分を監視しているようだ」という訴えを聴いた場合、「そんなことあるわけないよ、妄想だね、精神病に違いない」と早々に決めつけるわけにはいきません。「了解性」の項目で解説したように、その人の置かれた環境や状況をよくよくお聞きした上で評価する必要があります。次のような背景を想定してみましょう。

 「了解性」の項目で解説したように、その人の置かれた環境や状況をよくよくお聞きした上で評価する必要があります。次のような背景を想定してみましょう。

  1. 現代の日本で、32歳の独身会社員が、今年の春先からとくに理由もなく元気がなくなり、不眠や不安焦燥感を訴え続け、一か月ほど休職した後、心配した家族に連れられて初診したときに訴えた場合
  2. 強権的独裁政治が行われている某国で、28歳の工場勤務者が友人3人と国外亡命を計画していたが、そのうち一人が当局に逮捕されたという知らせを聞いた1週間後、残りの友人と落ちあった時の会話の中で訴えた場合
  3. 高血圧症と糖尿病を治療中の64歳の会社社役員の男性が、「数日前から夜になると、白い壁にぼーっと親子が立ってこっちを見ているんだ。そんなことあるはずもないのに-」と前置きしてから、上記を訴えた場合
  4. 戦国時代、織田信長が配下の忍者の首領を呼びよせ、監視強化せよと指令する中で、信長が上記をふと漏らした場合

 スパイ小説や時代劇を思い出せば、すぐにおわかりになると思います。私は実際には「某国」にはいないし、今は戦国時代じゃないけれど、もしもそうであったらと想像すれば、2や4は十分に「了解可能」です。その人の普段の生活や社会活動を自分(聴き手)と同じようなものだと勝手に想定してしまうと、大きな誤解が生まれてしまうことに気をつけなければなりません

 因みに、3の患者さんでは、脳血管障害による「器質性幻覚症」が強く疑われ、ときに生命にかかわる状態に陥ることもありますので、早急に(精神科,心療内科ではなく)かかりつけ医か神経内科等に受診し、脳CTやMRIなどの検査が必要です。

4 精神科への受診が必要な人

 どのカテゴリーに入る人でも、心身のつらさ(苦悩)を実感している人は遠慮なく受診してよいのです。

 けれども、傍から見るととてもつらそうでも、本人は大丈夫、問題ないと言い張る場合もあるでしょう。それでも、上述の精神病が疑われる場合には、家族や友人はその人を何とかして受診につなげたいものです。

  精神病の(統合失調症や躁うつ病が疑われる)人は病識(自分の方に何か故障があって、感情のありようや、ものの認識の仕方がふだんと違ってしまっているという自覚)がもちにくいことが多いので、「医者に打ち明けて自分の考えがおかしいなどと思われたら大変だ」などと、受診をいやがることはめずらしくありません。

  そうした場合には、「ストレス」の記事に記したように、「ぐっすり眠れるように」、「食欲が回復するように」医者の意見も聞いてみようと勧めてみると、いくらか抵抗感は減ると思います。

 一方、神経症の人は、「こんな程度の悩みごとで病院に行っていいのかしら」、「性格の問題だとか言われるだけじゃないかしら」と受診をためらうことが珍しくありません。悩みごとを打ち明けられた家族や友人も、「みんなそうだよ、大丈夫だよ」などと勇気づけるつもりで伝えたとしても、「そうか、こんなことで受診してはいけないんだ」とか、「自分でもっと頑張らないといけないんだ」などと無理に無理を重ねてしまうこともあります。

 症状や病の種類によって治療法は異なりますが、「困ったら/つらかったら/迷ったら-とりあえず相談してみる」ことを、どんな医師もお勧めしていることを忘れないでいてほしいと思います。