ふじみクリニック

タイム フライズ

2021.11.10


[2021/10/20 清瀬市上清戸]

 10月に入ってもしばらく暑い日が訪れていましたが、ここ半月ほどですっかり気温が下がり、早朝通勤時には上着の襟を立てて駅に急ぐ人が目立ってきました。年末というには少し間がありますが、「まだ大丈夫」などと思っていると、あっという間に時は過ぎ、あれこれやり残したまま新しい年を迎えてしまうことになるばかりです。

 光陰矢の如し/Time flies like an arrow.
風土文化の違う国や地域で同じ意味と表現の諺が存在するというのは、不思議な気もしますが、同じ人間なのですから、同様の事態に悩んだり困惑したりするのはむしろ当たり前と言うべきかもしれません。

 その意味は、広く知られているように、「月日が過ぎ去るのは、飛ぶ矢のように非常に早いから無駄に過ごさないように」と教訓的な意味に解されています。この諺はじつは日本固有のものではなく、もっとも古くは中唐(8~9世紀)の詩人李益による「游子吟」の中に記された一行「光陰如箭」が伝わったものだということです。「光陰」とは昼と夜、また、日と月などの意味から、年月、時間の意味を表し、「箭」は音読み「セン」で、「矢」のことです。
 もう少し考えを巡らせば、一度放たれた矢(為した行い)を呼び戻すことはできませんから、「かけがえのないこのひと時を大切に過ごす」といった意味にも取れるでしょう。

 秋の一夜、時の流れの迅さをひとり憂いていると、高校生の頃に習った漢詩も思い出しました。
耳に残っていたフレーズは長い詩文中の「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」という2行だけです。調べて見ると、作者は初唐の「劉庭芝(季夷):りゅうていし(きい)」という詩人でした。詩の前半部(読み下し文)は以下のようです。

洛陽城東桃李の花
飛び来たり飛び去って誰が家にか落つる
洛陽の女児顔色を惜しみ
行く行く落花に逢って長く嘆息す

今年花落ちて顔色改まり
明年花開くとき復た誰か在る
己に見る松柏の摧かれて薪と為り
更に聞く桑田の変じて海と成るを

古人復た洛城の東に無し
今人還た対す落花の風
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
(後略)
[劉廷芝(希夷) 「白頭を悲しむ翁に代る」]

 有名な詩ですから、上記のフレーズ(年年歳歳・・・)を検索語にすればネット上から現代語訳はいくつも拾うことができます。 古典で習ったときには、時は移ろい、命あるものは草も木も人もやがて滅びてゆく世の無常を慨嘆した作品と理解したというおぼろげな記憶があります。一方で、どうしてそんな当たり前のことを詩に詠わなければならないのかと訝しく感じたことも、なんとなく覚えています。


[2021/11/10 清瀬市松山]

 しかし、中身は大して変わらないまま年だけは重ねた今になって再読すると、この詩文にこめられた想いがなんとなく腑に落ちてくるような気がします。たしかにどのような生命も有限なものですが、真冬には黒茶色の土肌が広がる畑の一角に、誰かが植えたわけでもないのに、春になると春の花が,秋になると秋の花が咲きます。花が枯れ、地上に放たれたその種子が雨風を受けながら時の流れをじっと待ち、その季節が来れば再び根を伸ばし芽吹いて、やがてふたたび花開かせる草木は、ひとつながりの生命と言ってよいでしょう。

 この詩は、寂しさや空しさを嘆くというよりも、与えられた季節をひたむきに、自然の摂理に抗うことなく生き継いでいくことには善も悪もないと諦観したものと受け止めることもできるかもしれません。