ふじみクリニック

シャーロック・ホームズとフロイト
(2)ニコラス・メイヤー著「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」

2025.9.30


ニコラス・メイヤーのパスティーシュ小説

時を下って1970年代になって米国のニコラス・メイヤーの手になるパスティーシュ*、「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」ではヤク中状態のホームズをワトスンがジーグムント・フロイト(精神分析学の創始者)のオフィスに連れて行くシーンがありました。そんな記憶を辿っていたら、別の日、別の段ボール箱からまさにその本の原書と翻訳本(田中融二訳:扶桑社ミステリー文庫,1988)が出てきました。なんとまあ、いつどこで買ったものだか、すっかり記憶から抜け落ちていました。

* パスティーシュpastiche(仏):「作風の模倣」を意味し、音楽、美術、文学などの分野で、先行する作品の要素を模倣したり、寄せ集めたりして作られた作品のこと。

原題は "The Seven-Per-Cent Solution: Being a Reprint from the Reminiscences of John H. Watson, M.D., as edited by Nicholas Meyer"(1974)。直訳すると「7%の溶液:ニコラス・メイヤー編集によるジョン・H・ワトスン博士の回想録」となります。ここでいう「7%の溶液」とは、シャーロック・ホームズが「四つの署名」事件以来常用していたコカインであり、本書の主要なテーマを象徴したものです("Solution"には、「解決」という意味も合わせ持たせているでしょう)。

シャーロッキアンには、こちらも言わずもがなのことですが、作者コナン・ドイルは,英国の流行らぬ医師でした。自身の診療所があんまり暇だったせいか、副業として作家を兼業した最初の作品が、1887年に発表した「緋色の研究」です。初版から百数十年が経ち、ドイルの死後も数多くのパスティーシュ小説が出版されています。1974年に発表されたニコラス・メイヤーのこの作品は、手の込んだ導入部から全編にわたり、オリジナルの登場人物の個性や話の運び方を念入りに踏襲しつつ、いくつもの意外な展開を織り込んだ濃密な長編小説に仕上がっています。

精神科医療者の立場からすると、何よりフロイトとホームズの掛け合いが物語の骨子となっている点が、本書を「読まずにはいられない」作品の位置から外しません。今回はこの作品を覗いてみることにしましょう。

ドイルのオリジナルのシリーズでは邪悪な天才として描かれていたモリアーティ教授が、ニコラスの作品では、実は小心な数学教師にすぎなかったと設定されています。ホームズのコカイン中毒症状として妄想対象に祭りあげられ、ストーカーと化したホームズにつきまとわれて往生したモリアーティ教授がワトスンに救助を求めてきたという経緯が、「ワトスンが書き遺した非公刊文書」とされたこの物語の始まりとなっています。

「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」におけるホームズとフロイトの出会い

医師であるワトスンは、ホームズと共通の友人の力も借りて当時の医学情報を渉猟し、自らコカイン常用とそこから自力回復した経験があるウィーンのフロイトを探し当てました。ワトスンがホームズをウィーンまでいざなう手口は、ホームズの兄マイクロフトの知恵を借りつつ、身近で学んだホームズのまさにそのやり方を逆用したものと言えるでしょう。そうとは言え、コカイン常用によるホームズの思考力の衰弱を計算に入れれば、さほどの無理を感じさせることなく話は進んでゆきます。

後半部には、コカインの魔力からの解放と引き換えに、自らの哀れな現実に直面して抑うつ的となり、絶望の淵に追い込まれていたホームズの活力を再起させる事件が描かれています。それは、たまたま持ち込まれた難事件でした(小説だからちょうどよく事件が起こるわけです)。事件の詳細を聞くうちに、ホームズの青白くひからびた皮膚は淡く紅潮し、瞼が垂れ下がった眼は一転輝きを増し、ホームズは十分回復したとは言えない身体を引きずってその渦中に飛び込んでゆくのです。

そこから先は、お定まりのように、手持ちの情報から問いが立てられ、その問いを解消するために調査し、新たな事実の発掘とともに一歩進んだ問いを設定し・・・・いつもの快活能弁なホームズが急速に取り戻されていきます。事件の終幕では列車の屋根の上で悪者と剣を交えるスリリングな活劇もあり、ホームズはいよいよその本来の姿に立ち戻ってゆくのです。

しかし一件落着となったその後に、真の著者であるニコラス・メイヤーの勉強ぶりを彷彿させるもう一つの物語が明かされることとなります。事件を解決に導き、活力を取り戻したホームズが、別れにあたってフロイトに謝辞を述べ、どのように礼をしたらよいかと問いかけます。フロイトは、もう一度催眠面接を受けてくれないかと要望します(一度目はコカイン中毒の治療に入る際のその原因探索のために行っていましたが、有意な結果は得られませんでした)。ホームズはこれを受諾し、もう一度フロイトの懐中時計の僕となったのです。

催眠下でフロイトがホームズに語らせたコカイン依存の元となった心的外傷についてはメイヤーの翻訳書を読んでいただくことにして、1960年代から70年代にかけて米国精神医学会を席巻した精神分析学は、医療のみならず文学や思想にも大きな影響を及ぼしていたことが知れる物語の結末となっています。

本書は模倣本でありながら、各国に翻訳されベストセラーとなりました。英米合作で映画化もされており、1976年に公開されています。ホームズシリーズの再読に合わせて、この映画のDVDも入手して観ることができました。原作をほぼ忠実に再現したフェアな出来の作品でした。フロイト役のアラン・アーキンはやや若すぎるきらいがありますが、演じられた振舞い方は、まっとうな精神分析医の姿であるように思われました。