ふじみクリニック

何かひとつ よいことが ありますように

2022.01.03

ほんとうにあっという間に年が明けて、正月休みももう終わりです。
今朝6時半の当地の気温は零下2度でした。ふだんより少し遅い目覚めでしたが、寒いので布団の中でしばらく迷っていました。迷ったのは、すぐに起きようかどうかということで、昨夜から、冷えこんだ朝の畑や川面に立ち昇る水蒸気を撮りたいと思っていたからです。

手を伸ばしてカーテンを少し開けると、地表を離れたばかりの眩しい朝陽がまっすぐに差し込んできました。からだを半分起こして家の前の道路を見ると、陽を浴びた用水路の辺りが微かに靄っています。ちょうどよい朝ではないか。けれども夜遅くまで寝床の中でタブレットをいじっていたせいか(あるいは寝坊できるのも今日でおしまいかという思いが強くて?)どうも起き上がる気力が今一つ。寝床の中でもぞもぞと手足を動かし、準備運動を試みましたが、頭は覚醒してきても、なかなか決断がつきません。

タブレットの「天気」を見ると、今朝の札幌の最低気温はマイナス5度、東京は2度と表示されています。そうか、ここは東京より札幌に近い朝なのだ-そう思ったら、今度はもったいないという気持ちが湧いてきて、ようやく布団を蹴飛ばして出かける準備をしました。(しかし天気予報の「東京」とは、一体どのあたりまでを含むのでしょうか。)

家を出たのは7時過ぎです。
ここのところメンテナンス不足の原付バイクはエンジンのかかりが悪いので、仕方なく車に乗りこんで、自宅から10分ほどの入間川笹井堰の取水場横の行き止まりの道に車を停めて遊歩道に降り立ちました。もちろん街や野山の写真を撮るには徒歩がいちばんよいのですが、年を取るごとに寒さにめげてしまうのはホントに情けないことです。

コンクリートの堰の上には真っ黒な大柄の鳥が十数羽、あふれる朝陽の中で羽を広げていました。カワウです。そっと近づき、腰を下ろして撮影ポイントを探ります。場所を決めてカメラを取り出しますが、かじかんだ手の動きは鈍く、交換しようとしたレンズをバッグの中に落としてしまいました。大した音ではないのにカワウは大きな羽音を立てて一斉に飛び立ってしまいました。ほんとうに敏感な鳥たちです。

歩き回るうちに陽はかなり高くなってきましたが、枯れた芒の原はまだ真っ白です。枯葉の吹き溜まりの所々に残っている青草に近づいてみます。目を凝らすと、霜のついた草葉は砂糖菓子のようです。

冬枯れの草木や霜柱、水鳥、そして浅い瀬に群れを成して小刻みに泳ぎまわる小さな魚たちを眺めているうちに、去年はあまりいいことなかったなあという独り言が嘆息とともにもれ出てきてしまいました。そして同時に、嘆息するわが身を慰めるように有名なあの-冬来たりなば 春遠からじ-という詩句が浮かんできました。

つらい季節を耐えぬけば、必ずや思い叶うときが来る-という意味のこの詩句は、イギリスの詩人シェリーの『西風の賦(西風に寄せる歌)Ode to the west wind』の末句「If winter comes, can spring be far behind ?」に由来しています。

シェリーは社会変革をめざした詩人であり、詩を発表した1819年の8月にマンチェスターのピータールーで発生した、政府による市民の虐殺事件に想いを馳せ、イタリアで書いた作品とされています。その最後の節は新約聖書の黙示録を想起させ、革命家たちを励起させようとの思いが迸るようです。この原文を歯切れの良い漢文調に翻訳したのが誰かははっきりしていません。この詩句は「朝の来ない夜はない」と同義であり、イギリスにはほかに「夜明け前が一番暗い(The darkest hour is just before the dawn.)」という俚諺があり、日本にもほとんど同じ意味の「夜まさに明けなんとして益々暗し」という言い回しがあります。

耐えればかならず幸が訪れる-そんなこと誰も約束できないのは、ほんとうはみんな知っているにきまっています。
それでも年の初めになると、どうしても祈らずにはいられません。
今年こそなにか一つくらい良いことがありますように。
きっとあなたに、そしてすべての人に。