2022.02.05
[2022年1月(上清戸) 雪中修行する座禅僧のようです]
数えてみれば、人獣共通感染症は21世紀に入って今回の新型コロナで4回目です。SARS、新型インフルエンザ、MERS、そして新型コロナ。5年に1回のペースで、新しいウイルスによる人獣共通感染症が世界的なパンデミックを引き起こしているわけです。SARS、MERSは日本にほとんど入り込まずに済みましたが、東アジアや中東諸国ではたくさんの感染者・死者を出しました。
ウイルスを媒介する野生獣は鳥、コウモリ、豚、ラクダと様々ですが、数十年前なら人間と接触する機会の少ない野生獣と人間が接触して、野生獣のウイルスが人間に感染して体内で変異することでパンデミックがもたらされるというパターンが繰り返されています。人間が自然破壊を続け、野生獣の生息地がどんどん狭くなり、人間と野生獣の接触機会が増える限り、人獣共通感染症はこれから先も繰り返し発生すると覚悟しなければなりません。アフリカ、南米、アジアがこれからも感染症の発生になると思われるので、いくら日本が島国だと言っても交通の発達した現代では、常日頃の準備が不可欠だというわけです。
そういう事情は理解できますし、現代を生きる私たちにとってやむを得ない態度ではあるのでしょうが、常に警戒を怠らないという生活ぶりは、大きな緊張感と不自由感をもたらします。些細なことに過敏になり、ときには他者への共感や寛容さをすり減らし、自縄自縛の苦境にも陥りかねません。
おそらく、私たちの最近の日常は、予測外、計算外の何かが起こればすぐに全体が揺らいでしまうような、ゆとり(遊び)のない状態に陥っているのではないでしょうか。時間のゆとり、空間のゆとり、そして気持ちのゆとり ― 「いざというときに出動させられる余力」のようなものを犠牲にして、目に見える短期的な利益や効率性ばかり求められ、それに追従する生き方に慣れすぎてしまったのではないかという気がするのです。
効率よく、より高い収入や社会的地位を得るために、住まいや職場を何度も変え、実際に生活している地域や共に暮らす人々のためにではなく、会社や自身が属する営利集団に身をささげるような生き方では、私たちの心身の余力はすり減ってしまいがちです。この場所を故郷として生活し、この土地で採れたものを食べ、この町の風土文化を大切にする「定住民」としての生き方を「日常」とすることを、私たちはもう一度見直してみる必要があるのかもしれません