ふじみクリニック

「不安」について(2)

2022.03.05


[入間川河畔]

不安の意義あるいは自己対処

私たちは不安と無縁に暮らすことはできません。しかしどうしてこんな厄介な感情とお付き合いしなければならないのでしょうか。かの有名なチャールズ・R・ダーウィンは、「不安とは、おそらく危険信号への反応として発生したものだが、長い進化の歴史の結果、(そこから)危険を回避するための一連の反応行動を起動させる契機をなす感情と考えられる」(1872)という意味のことを述べています。

自分が不安を感じている理由を考えて対処策につなげようと試みたり(例:今の勉強量では試験に落ちそうだから、もっと頑張らなくてはと思う)、これから起こるかもしれない困った出来事を事前に察知させる予備信号として生じたり(例:なんとなく雲行きが怪しいから予定より早く下山しよう)、つまりはよくない将来を回避する行動を模索するきっかけとして先行的に生じる感情が不安だというわけです。

したがって不安の機能(生理的側面)に目を向ければ、自分が現在置かれた状況や、現在取り組んでいる課題や人間関係の中で、何かしらうまくいかない将来がはっきりした自覚なく感知されているのではないかと、まずは振り返ってみることでしょう。

個人によっては、不安軽減/解消努力が不安対象をむしろ際立たせて、さらに不安にとらわれてしまうという悪循環を形成してしまうことがあります。森田療法の創始者である森田正馬は、そのような悪循環を「とらわれの機制」として説明しました。不安そのものが問題なのではなく、不安に対する態度が神経症に繋がると考えたわけです

森田理論を概説するのは本コラムの枠を超えますが、不安の悪循環に陥りやすい性格特徴(森田神経質)について少しだけ触れておきましょう。森田は、不安の対象はさまざまであっても、「とらわれ」が生じる背後には共通の性格傾向があると指摘し、それを「神経質性格」と名づけました。森田のいう神経質性格とは、内向的、自己内省的、心配性、敏感性といったどちらかといえば弱々しい側面と、完全主義、理想主義、頑固、負けず嫌いといった精力的とも見える側面を併せ持ち、内的葛藤を生じやすい傾向のある人のことです。

このとらわれの姿勢から脱却するためには、あくまでも不安も欲求(生の欲望)も自然なものとして「あるがまま」に受けとめる姿勢(受容)を培い、本来の欲求にも「あるがまま」に承認し、目前の生活に関わり(実生活の諸事万般から逃避せず)自己を成長させるよう促していくことが有用だと述べました。(医学生時代にこの「あるがまま」という言葉を知ってすぐに連想したのは、ビートルズの “Let It Be” です。)

たしかに不安を完全に取り除くことを目的として抗不安薬や抗うつ薬を使用しても、なかなかうまくいきません薬物療法は、森田のいう「あるがまま」という心境にまでは届かないにしても、とりあえず急性の不安や身体症状を鎮め、抱かれた不安が過剰なものだと振り返る冷静さを回復させるには相応に有効です。受診して薬物療法を受けるにせよ、まずは自己対処を試みるにせよ、対話の場で、日々の行動の中で、不安を感じても仕方ない、不安を感じながらでも生きていける(実際にこれまで生きてきた)と実感できる場を増やしていくことが大切です。