2022.09.12
私たちが生きてゆくうえで、記憶とは大変重要であると同時に、必ずしも思いのままに操ることのできない、まことに厄介な機能です。筆者の受験生時代、なんとか自分の記憶力を向上させようと、テキストではなく「記憶術」に関する本を読み漁ったりするうちに試験日を迎えてしまい、結局本道の勉強不足の結果を突きつけられることばかりだったという嘆かわしい記憶がよみがえります。
アメリカの「心理学の祖」と言われるウィリアム・ジェームズは次のように述べています。
いったいどうして神が与え給うたこの絶対的な能力は、昨年の出来事よりも昨日のこと、とりわけ一時間前の出来事を、よりずっと正しく保持できるのだろうか1) 。また、年をとっても子ども時代の出来事を非常にはっきりと把握しているように見える2)のはどうしてだろう。経験を繰り返すことで、よりはっきりとそれを思い出すことができるようになる3)のはなぜだろう。なぜ、薬や発熱、仮死や興奮によって、長い間忘れていたことが思いだされる4)のだろう。(中略)このように奇妙なことには、まったく感嘆させられる。そこにあるものを見ていたとしても、思いだされることは、現実の出来事とは全く正反対かもしれない5) 。明らかに、その能力は絶対的に存在するのではなく、ある条件下で機能するのである。そして、その条件を探索することが心理学者の最も興味深い仕事になるだろう。
[The Principles of Psychology,1890:邦訳『心理學の根本問題 現代思想新書6』松浦孝作訳,三笠書房,1940]
上記引用文中の肩数字のついたジェームズの疑問点を現在の心理学の用語で置き換えると、次のようになります。
1)近時記憶と遠隔記憶の性質、それぞれの障害のされ方
2)老人あるいは認知症患者における過去想起の容易さ
3)訓練による記憶の強化
4)異常身体条件下における自生想起
5)追想時の記憶の改変または偽記憶
記憶の分類の仕方はいくつもあります。いくつか例を挙げてみましょう。
陳述記憶 | 言語化やイメージ化が可能 | |
---|---|---|
エピソード記憶 | 個人の生活史の記憶 | |
意味記憶 | 思考の素材となる言葉の知識 | |
非陳述記憶 | 言語化やイメージ化ができない/困難 | |
手続き記憶 | 意識には上らないが反復により次第に習熟する:運動機能,知覚機能,認知機能など | |
プライミング | 過去に体験した先行刺激の受容が後続刺激の処理に促通効果を及ぼす現象 | |
単純な古典的条件付け | ||
順応水準効果 | ||
その他 |
表1(Squire LR et al, 1988)
私たちが日常的に「記憶」と呼んでいるのは、上の表の「エピソード記憶」のことが多いので、記憶とは精神的、概念的な機能・事柄のように考えがちですが、「自転車の乗り方」や「ピアノの弾き方」などの「手続き記憶」のように、いわば身体にしみついた記憶というものもあります。においや味の記憶なども、長期的に保持されやすい身体記憶といってよいでしょう。
あまり聞きなれない「プライミング」という機能の一例は次のようなものです:昔好きだったアイドルの名前を思い出そうとして、顔や歌は思い出すことができてもどうしても名前が出てこない。知っていそうな友人に訊いてみたら、ちょっと意地悪な友人は、「ほら、『や』がつく子だよ」といいます。それでも思い出せないと言うと、「や・ま・・・・」などと言われたところで、「あ、山口百恵だった」などとようやく思い出せる-といったような体験を成立させる想起機能です。
臨床的には、記憶保持の長さによって、短期記憶と長期記憶に区分することが多いようです。
名称 | 記憶保持の長さ | 性質 | |
---|---|---|---|
短期 記憶 |
即時 記憶 |
数秒単位 |
|
長期 記憶 |
近時 記憶 |
数分から 数日単位 |
|
遠隔 記憶 |
数日から 年単位 |
|
表2 記憶の臨床的分類
比較的最近の概念としては、作動記憶(working memory)、展望記憶(prospective memory)、メタ記憶(metamemory)などがあります。
作動記憶とは、複数の情報を一時的に保持し、これらの情報を言語の理解、学習、思考、推論といった課題を遂行するために役立てるもののことです。パソコンの記憶装置にたとえたら、RAM(Random Access Memory)に相当するもので、いわば「心の作業台の広さ」のようなものです。このたとえを流用すると、表2の「遠隔記憶」とはPCのハードディスクのようなものでしょう。
展望記憶とは、未来のある時点に意図した行動を実行するまで保持し続ける記憶機能のことです。例えば、明日朝起きたら一番に尿を採取すると自分に言い聞かせておき、その後のひと時それを忘れていても、目覚まし時計のように、朝になるとはっと思い出して実行することを可能にするのが展望記憶の働きです。
メタ記憶とは、自分の記憶している状態を自己モニター可能な機能のことです。
ちょっとわかりにくいですね。例えば英単語を50個覚えなければならないという課題が与えられたとき、私たちは声に出したり、何度も書きつけたりして一所懸命に覚える努力をします。試験の日の朝、「うん、もう完全に覚えた」と思えるときもあれば、「半分も覚えきっていない」と感じる時もあります。このように、その内容を具体的に想起しなくても、自分が全体のどのくらい覚えているかどうかは、なんとなく自覚できるものです。
このように自分の記憶状態を相対的に認識できることをメタ記憶と言います。「認知の認知」とも言われますが、大昔ソクラテスが言ったという「無知の知」などもこの機能に関連する概念といえるかもしれません。
上述したように、「記憶」といっても、「記憶力がいい」とか「物覚えが悪い」とか単純には言い表せない複雑な要素があります。基本的には、情報を①「覚えて(記銘して)」、②「その後一定期間忘れずにいて(貯蔵して)」、③「思い出す(想起する)」という、①入力-②貯蔵(保持)-③出力の3つの過程から成り立っているのが記憶機能の内訳です。それぞれの働きは複数の解剖学的/機能的システムに担われているので、故障した部位や範囲によって記憶障害は様々の現れ方をするというわけです。
また、人間の場合はとくに、記憶対象や体験内容に対する個人の「意味づけ」が記憶の3過程に大きな影響を与えます。認知心理学の先駆者の一人とされるイギリスのフレデリック・バートレットは、90年も前に次のように記述しています。
・・・・・・
Remembering (Cambridge University Press, Cambridge, 1932)
ふだんの生活を振り返った時に、バートレット先生の指摘はいずれもなるほどと思わせるものですが、筆者自身、自分の記憶力が日々衰えてゆくことを実感して悲しくなるばかりです。そんなときは、「もう覚えられないと諦めて、まあ近くにいる人やカレンダーや手帳や・・・あれやこれやに頼みまくって、代わりに覚えていてもらおう」と開き直ることにしています。つまり、記憶力の減退は隠すべくもないところではあっても、いまのところ「メタ認知」くらいは機能しているということでしょう。
次回は、どのような病がどのように記憶機能を障害するかについて触れたいと思います。