ふじみクリニック

秋の日の

2022.10.09


[2022/10/3 清瀬 松山保存林]

Chanson d'automne

Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon cœur
D'une langueur
Monotone.
・・・・・・・

[Paul Verlaine,1866]

涼しい日が増えたといっても、ヴェルレーヌの有名なこの詩ほどの風情が身の回りにあるはずもなく、なんということもなしに日は過ぎていきます。陽が射せばまだ汗が滲む日々も残りますが、そんな晴れた日でも街路の庇沿いに歩けば風の冷たさに身が竦みます。

久しぶりに清瀬高校裏の緑地を歩いたら、曼殊沙華が花開いていました。毎年お馴染みの姿ですが、日高市高麗川の巾着田や入間川沿いのあでやかな群生地と違って、ここでは数輪の花が所々にひっそりと佇んでいるだけです。

別名「彼岸花」というように、例年9月の彼岸の頃に盛りを得る花ですが、今年は7月の仮梅雨明けのあとの日照不足や8月の熱暑の影響か、10日ほど遅い開花となっています。

何もない地面から若草色の花茎がするすると伸び、先端についた5、6個の花芽がふくらんで、うっすら赤みを帯びるとほどなく割れて、一つ一つの花弁がからだを外側に反り返らせながら輪形上に整列して花は完成します。花弁の外側に長く張り出している雄蕊雌蕊がこの花を妖艶に際立たせています。見ていると、落葉前の緑を渡る爽やかな風と木洩れ日に誘われてか、小さな虫や蝶が蜜を求めて花を訪れます。10月になったというのに、どこからか大柄のアゲハ蝶なども姿を現すのはちょっと意外な景色です。


[2022/10/2 入間川河畔]

植物図鑑によると、この植物は「三倍体」であるため、花は咲いても実はなりません(「コヒガンバナ」は二倍体で種をつけるらしい)。繁殖は専ら地下茎(球根)によります。花が落ちた後、晩秋から冬場にかけて艶やかな葉を茂らせたかと思うと、春には茎も葉も地表から姿を消してしまう変わった特徴があります。

今西錦司のエッセイにこの花を採りあげた記述があったのを思い出しました。

彼岸花はその繁殖様式(地下茎で増える)のため、昆虫による受粉は意味がないのに花を咲かせ、昆虫に蜜を提供しているのはどうしてだろうと彼は訝り考えをめぐらします。ダーウィン流の進化論者なら、彼岸花もかつては昆虫による受粉作用を通して果実を実らせ、それによって繁殖していたときがあったにちがいなく、花蜜はその頃の名残を現したのであろうと推測するだろう。しかしこれは狭量な、教条的な自然観ではないかと今西は言っていました。ユニークな生態学者であり文化人類学者でもある今西のその記述がとても気になったので、家に帰ってから書棚をひっくり返して原文を探し当てました。以下引用です。

 しかしこれは、なんという料簡のせまい自然観であるだろうか。こういう自然観のもとに眺められた動物や植物は、みなそれぞれの利益のために汲々としていて、一しょに同じ土地でくらし、一しょになって自然というものをつくっている、他の種類の動物や植物のことを、一切無視して顧みないものである、という前提に立っているから、料簡のせまい自然観だ、といったのである。自然はもっとのびのびとしていて余裕に満ち、その余裕をもって他の種類の生物を、助けていると見られないものだろうか。ヒガンバナの花蜜もその余裕の一つであって、自分たちのためには直接の役に立たなくても、それがアゲハチョウの好きな食物として役立っていたら、それでヒガンバナの花蜜の存在意義を認めたことにならないだろうか。(中略)
 これが動物同士である場合には、食うものと食われるものとの関係が、いきおい血なまぐさいものとなって、生存競争とか弱肉強食とかいうことを連想しがちであるけれども、それはどこまでも個体の立場に焦点を合わそうとするから、そうなるのであって、すべての個体をその中に包み込んだ種の立場に焦点を合わせかえたならば、種はすこしぐらいの個体が食われたって、別に痛痒を感じていないように見える。私はアフリカで、何万というウシカモシカやシマウマの移動を眼のまえにしたとき、こんなにたくさんいるのなら、その余裕で少々のライオンを養ってやっても、不都合は生ずるまい。むしろそれによって養われているライオンの数が、すくなすぎはしないか、とおもったぐらいである。
『今西錦司:生物レベルでの思考、STANDARD BOOKS、平凡社、2019』
(初出1981年〈今西79歳〉

「無償の愛」という言葉があります。生まれたばかりの子どもが親たちの全面的庇護(親の側から見ると見返り/報酬のない一方的な提供)なしに生き延びられないのは当然です。しかしその後も、社会というシステムを構築し、その中で生きる人間が、様々のハンディキャップを抱えた他者を排除するのではなく、隣人として、仲間として包み込むようにシステムを発展させたのは、意図的にか否かは別にしても、個としては「無償」に見える振る舞いが集団(種)を生きながらえさせるためには不可欠の要素になるということを知ったからではないでしょうか。曼殊沙華が自分の種の保存にかかわらない花蜜を提供し続けるのは、種を越えた多様な生き物があってこそ自らの種も(気持ちよく)存続することができるのだとわかっているのかもしれません。曼殊沙華のような植物が「わかる」というのはおかしいというならば、それが自然の摂理だと言い換えてもよいかもしれません。

しかし、さらに宇宙の高みから見れば、すべては偶然の組み合わせの産物なのかもしれません。偶然生じた一時の秩序性の中で探し出された「意味」というものは、世界のエントロピーが再び高まれば、きっと元の偶然性の中に雲散霧消してしまうのかもしれません。だからこそ自然は険しくも美しいといえるのでしょう。こんなふうに綴っていくと、どうしても人間(私)は意味の世界から抜けきれないと思うばかりです。

冒頭のヴェルレーヌの詩には、たくさんの翻訳がありますが、個人的には、以下の上田敏の訳が一番しっくりします。この詩は、“Chanson d'automne(秋の歌)”と題されているのですから、原文の韻律を失いたくないと思うからです。

落葉

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

上田敏 『海潮音(1905)』
[青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/2259_34474.html)から]