ふじみクリニック

今年こそ?

2023.1.13


[2023/1/1 どこかの公園のベンチ]

寒い日が続きます。

毎年同じようなことを書くようで気が引けますが、年が明けても何かが変わるわけではありません。何日かの休みを友人や家族と共有できれば、語り合い、いくらかの酒食を共にします。いくらかのつもりが不覚にも飲みすぎ食べ過ぎて、痛めた喉と身体を静かに休ませる一日を設けることができれば、あっという間にふだんの日々が再開します。

そういう季節の区切りを何百回となく通り過ぎてきて、それでも「日々あらた」と実感できる人がいたら、それはすごいものだと思います。そういう人はたぶん、暦に載っている季節の行事とか24節気とかにかかわりなく自身の秤を持っているのでしょう。

一方で、人は記憶を拵えて蓄えながら生き延びる存在ですから、「あらた」という体験が必ずしも「初めて」を意味するものとは限らないだろうとも思うのです。初めてではないことに、意図せぬままにせよ、何か初めての意味を加えようとするのはどんな思いからなのでしょう。

同じ季節、同じように夜が明けて窓から差し込む陽の光の角度が同じようであっても、そこに照らし出された机や壁掛け時計の作る影とか、カーテンの襞の反射が微かに違って見えることがあります。比較参照すべき「いつもの様子」をすぐに思い描くことができなくても、なにかしら雰囲気が違って見えるということが新鮮な(好ましい)印象をもたらすのか、何ものかの(不吉な)予兆として感知されるのかは、内的体験との化学反応の結果です。なにか取り返しのつかないしくじりにほぞをかみ、眠られぬ一夜が明けかかり、地平線が薄く白んでくるのを見たときに、はっと別種の考えが浮かぶとしたら、それは吉兆どちらのアイデアであることが多いでしょうか。

年が明けて半月が去り、昨年からの持越し課題を机の上にいくつも置いて、自分の中にどうも漲るものがありません。すっかり葉の落ちた庭のヤマボウシは樹枝のあいだから明るい冬の光を遠慮なく室内に導き、頭の中では、「今年こそ」と「来年はきっと」が終わりなく繰り返されるばかりです。

年明けて仕事始めの日、駅に降り立てば、駅前には冷たい空気をものともせず、もうこんなに花開かせている小さな菊の花に逢えました。


[2023/1/4 清瀬駅 南口]

和名カンシロギクは、ノースポールギクとも呼ばれますが、こちらは商標名らしいです。小さく可憐な群生花で、暑さに弱いが、寒さにはめっぽう強い草花です。そうです。酷暑に耐えてこの季節をこそ待ち望んで開花したこの花の花言葉のように、今年こそ「来年はきっと」と言わずに済むよう、自身を偽らずに生きてゆきたいと思います。