ふじみクリニック

心的外傷後ストレス障害(PTSD)(2)-犯罪被害者のケース

2023.4.25


[2023/4/10 上名栗]

トラウマの影響がどのような広がりをもつかを理解するために、筆者の経験したいくつかのケースを複合して、背景事情についても大幅に脚色した創作事例を一つあげておきます。

犯罪被害者のケース

事件はクリスマス・イブのホームパーティーの準備中に起こった。キッチンで忙しく立ち働いていたマリコ・バージェスがチキンローストの仕上がり具合を確かめようとしたレンジを覗き込んだ矢先に、玄関の呼び鈴が何度か鳴らされた。てっきり注文していたプッシュ・ドゥ・ノエルのチョコレートケーキが届けられたのだと思い、彼女はエプロンで手を拭きながら玄関へと急いだ。

若い頃からアメリカに憧れ、社交的だったマリコは、11年前に横田の米軍基地のレストラン勤務中に夫と知り合って結婚し、2人の間には8歳と3歳の子どもがいた。結婚後、マリコは2年ごとに勤務地が変わる夫につれ添い、長女のメアリをフィリピンで、長男のトムを韓国で出産した。しかし長女が小学校に入ったときに居住していたハワイを定住の地と決め、事件のあった年の8月から単身赴任していた夫のクリスマス休暇を心待ちにしていた。

玄関のドアを開けたときからの記憶がマリコには欠落している。懸命に思い出そうとしても、何かキラリと光る鋭いものを見たような気がするだけだった。それから、痛みではなく・・・・ズシンとした衝撃を脳天に感じ・・・・1度、2度、3度。

・・・・そう、振り向くと3歳のトムが愛くるしい碧い瞳をこれ以上できないほど大きく見開いて、じっとこちらを見ている。何か叫んでいるようだけど、何て言っているのかわからない・・・

こっちにきちゃだめと言いたかったけれど、声が出なかった・・・・それ以上思い出そうとすると、頭が痛くなるぱかりだった。

マリコは自宅で暴漢に襲われ、頭部・顔面・頸部に20か所以上の剌創を負った。病院に担ぎ込まれ、まる2日後に意識を回復して警察の事情聴取に応じたとき、彼女は、襲われた直後、警察に自分で助けを求める電話をしたこと、駆けつけた警察官に「(水道バルプの具合をチェックしにきたといって訪問した)サングラスをかけた作業服姿の男が、2つのねじ回しで私を襲った」と述べたことをまったく記憶していなかった。そればかりか、3歳の子どもを守るためにか、マリコが玄関脇にあった消火器を暴漢に浴びせかけた形跡があったが、その記憶もいっさい彼女には残っていなかった。

救急病院からの退院時診断書は、次のような受傷内容を明らかにしていた。①顔面と前頸部の貫通挫創、②右顎骨の複雑骨析、③発声障害を引き起こした甲状軟骨の複雑骨折、④顔面および頭皮の多発裂創、⑤多量出血による貧血状態。頭部CT検査では、脳実質には何ら異常所見はなかったことが付記されていた。
すなわち、警察調書に「殺人未遂事件」とあるとおり、本事件の加害者が35歳のマリコ・バージェスに対して殺意をもって暴行を行ったことには疑問の余地がなかった。顔面と頭部への容赦ない攻撃が、被害者に「死の恐怖」をもたらし、さらに発声障害を残す声帯への損傷や瘢痕を生じさせた顔面裂創は、種々の心理的影響を長引かせる重大な要因となった。

この事件のあと、 マリコの人生は一変してしまった。2か月ほどして退院したあとも、悪夢、睡眠障害、過剰な驚愕反応(何かの音がすると、ドアの陰に誰かいるのではないかとおびえたり、電話やノックの音にもいちいちびくっとする)など、被害現場(自宅)にいることの恐怖(そのため、退院後数週間でロサンゼルスに転居している)が強く反復的に認められたが、時とともにそれらの症状の強度は減じていった。しかし、事件の犯人がその後も逮捕されていないことも関連して、ハワイを訪れる際の不安・恐怖症状は続き、所用でどうしてもハワイを訪れなければならないときには、夫同伴であるにもかかわらず、空港に立った時点から、不安・恐怖感などの精神症状のみならず、動悸、発汗、呼吸困難感、視野狭窄感などの生理的・身体的症状にもつねに襲われた。

事件から1年して、マリコは夫に懇願して日本への転勤を実現させてもらった。故郷に帰り、アメリカに比べて治安のよい環境であるという安心感も手伝って、彼女を悩ませていた悪夢、事件や入院治療場面などに関する侵入的な過去想起(考えまいとしても何度も思い出されて、恐怖におののくこと)などの症状は、日がたつにつれて、さらに消退していった。

しかし、犯罪事件を取り扱った内容の映画やテレビなどは依然として見ることができず、集中力や意欲の低下、(自覚的な)物覚えの悪さ、ささいなことでいらいらしたり夫にくってかかったりする感情易変傾向などが強まっていった。その結果、「事件から3年もたっているのに、もとのような私にならない。毎日憂うつで何もする気がしない」、「私はうつ病なのでしょうか」と訴えて、マリコは筆者の外来を初診することになった。

社交的で友人の多かったマリコは、日本に帰って、自ら友人に電話したり、大好きだった宝塚歌劇を観に行ったりした。しかし、かつてのような喜びを一度も味わうことはできなかった。マリコはしだいに「憶病で、優柔不断で、陰うつな表情しかできない自分」に嫌気がさし、夫の励ましにもかえっていらだちが募る自分を自覚していった。事件の前後の記憶は曖昧化していったのに、クリスマスが近づくと胸騒ぎを覚え、いまでもねじ回しは触ることもできない。事件後、頭痛や睡眠障害、胃腸障害が続き、いくつもの病院を訪れていたが、一向によくならず、2種類の頭痛薬と3種類の胃腸薬を常用していた。夫は相変わらず優しいが、「こんな自分をきっと情けないと思っている」とマリコは確信していた。「私はもう何にもできない女だとあなたは思っているに違いない、そうはっきりいってくれた方が気が楽よ」。興奮して夫にそう述べたとき、初めて夫は、「そんなふうに自分のことを責めるマリコは好きではない」と声を荒げたということである。

PTSDを理解し、自然の回復力を助ける

何度かの面接を通じて状況を把握したあと、筆者は保険会社あての診断書を書いて患者さんに手渡しました。「ハワイの救急病院からの退院時診断書を提出しただけであり、自分が『うつ病』であるなら別に診断書を出さなければならない」という患者さんの申し出に応じたものでしたが、PTSDとの診断名を記述しただけの通常の簡易な診断書ではなく、比較的詳細に臨床経過を記述した意見書のような診断書類を作成しました。その書類を前にして、事件後に恐者さんの体験した諸症状(行動や性格の変化を含めて)をPTSDの概念のもとに1つひとつ説明し直しました。

“あなたはさまざまの苦痛にさらされてきましたが、それらの多くは、いってみれぱ「異常な事態に対する正常な反応」であって、決して「あなた自身の異常」なのではない"ということを、何度か繰り返して説明しました。そしてPTSDとは、単に「精神的問題」というよりは、中枢神経系に何らかの傷つきが生じている事態(≒身体的な病態)でもある、という学説を紹介しました。

マリコはいくつかの症状が残ったまま、半年ほどのちに再びアメリカヘと旅立っていきました。その間の面接を通じて、マリコの自己認識は「いつまでたっても立ち直れない弱い自分」から「ひどい後遺症を抱えながらがんぱっている(がんぱりすぎている)自分」へと、ゆるやかに変化していきました。「渡米したら腕のよい形成外科医にかかって、頬の癖痕を治してもらうつもりだ」と、最後の面接でマリコは語りました。実は夫はずいぶん前からそのことを彼女に提案していたのですが、マリコは「こんな傷くらいで負けたくない」と気丈を装っていたということでした。

「こころの傷」をめぐる話題は古くて新しいものですが、精神科医療が「こころの傷」を扱う(扱える)ようになったのは、実はごく最近のことです。精神料医もまず医師であり、「からだの病気」を治療する教育訓練が優先されます。驚かれるかもしれませんが、医学部の講義でも卒後研修でも、「精神(心理)療法」に関する全国共通の教育スタンダードは、現在でもないといってよいくらいです。精神分析学などのように体系性を備えた人間理解の方法ですら、医学教育の必須項目にはなりえていないのです。それほど「こころの傷」とその影響とは複雑多様であり、そのなりたちや回復機序が解明されていない現在、少なくとも患者さんに本来備わっている「自然の回復能力」を損なわないように私たちは援助していきたいと思っています。願わくば、患者さんのこころのなかでトラウマが単なる「外傷性ストレス」に終わることなく、その体験を切り抜けてきたことが「これからの人生への『ばね(resilience)』」を強化する縁となることを祈りながら。