2023.5.20
[2023.5.21 智光山公園]
先回(2023.4.25)の本コラムでPTSDについて解説しました。ついで、というわけではありませんが、本コラムでは、この10年内に大きく改訂された二つの国際診断基準-DSM-5(米国精神医学会,2013)1)のPTSD基準と、ICD-11(WHO,2022発効)2)に採用されたComplex PTSD(複雑性PTSD;以下C-PTSD)という新カテゴリーについてかんたんに触れておきたいと思います。
PTSDという臨床カテゴリーは、ベトナム戦争復員軍人の後遺障害を補償するという動因の下に3)米国精神医学会の公式診断基準であるDSM-Ⅲ(1980)4)に初めて登場しました。これは,病因論的疾患分類システムを放棄し、客観的・記述的診断に立ち戻ることを宣言したこの診断システムにおいて特異なものでした。PTSDがDSM-Ⅲに採りあげられてから,「戦闘体験」と同様の構造を持つ明白な強度の心身ストレッサー、すなわち、通常の市民生活においても、自然災害、飛行機事故、犯罪事件やレイプなどを体験した人々に再体験、回避・麻痺、覚醒亢進という共通の三大症候が生じうるという事実は、地域や文化を超えて共有され,PTSD診断は世界中に浸透していきました。しかし、こうした三大症候以外の、外傷体験後のパーソナリティの変化とか対人関係様式の変質について正当な評価を受けるようになったのはそれほど昔のことではありません。
DSM-Ⅳ-TR(2000)5)から13年を経た2013年にDSM-5が公刊されており、PTSD基準における両者の主な違いは下の表のようになります。
DSM-Ⅳ-TR (2000) 5) | DSM-5 (2013) 1) | ||
---|---|---|---|
A | 身体が損なわれるような危機的況の体験、目撃、直面 強い恐怖心や無力感や戦慄などの反応が生じる |
A |
死亡、重傷、性暴力等の体験、目撃、直面 近親者や親しい友人に起こった心的外傷体験の伝聞 職業上、心的外傷となる出来事に繰り返し強く曝露される |
B | 再体験症状 | B | 再体験症状 |
C | 回避と麻痺 | C | 回避と麻痺 |
D | 認知と気分の陰性の変化 | ||
D | 覚醒亢進症状 | E | 覚醒亢進症状 |
E | 1か月以上の持続 | F | 1か月以上の持続 |
F | 臨床的苦痛、社会的・職業的機能障害 | G | 臨床的苦痛、社会的・職業的機能障害 |
6歳以下の子どもに対する基準を別個に詳細記述 |
表 DSN-Ⅳ-TRとDSM-5のPTSD基準の骨子
DSM-5で新たに加わったD項を見ると、以下のようです。
D 心的外傷的出来事に関連した認知と気分の陰性の変化
この内容を見ると、DSM-Ⅳ-TRのC項「麻痺」症状に含まれていた項目の一部が取り出され、さらに詳しく述べられていることがわかります。また、前版よりPTSDに関する解説は詳細になり、とくに注目されるのは、幼少期の外傷的出来事の体験様式に関する次の記述です。すなわち、「子どもたちは同時発生的な外傷(身体的虐待やDVの目撃など)を経験する場合があり,そのような慢性的状況では症候の発現を識別(reportではなくidentify;筆者注)できない可能性がある1)。」これは,主観的には、心的外傷体験から一定の空白期間をおいて症候が発現する(急性硬膜外血種における“lucid interval”のように)PTSD事例の存在を承認した記述であり、PTSD診断にとって画期的な変化6)といえるものです。
さて、DSM-5に遅れること9年、ICDの2022年発効版には6B40にPTSDが、6B41にC-PTSDが上掲されています。総論部分のみ訳しておきます。
6B40:PTSDは、極度の脅威的なあるいは恐怖の出来事(単回、複数回双方)に曝された後に発生する障害である。以下のすべてによって特徴づけられる。1)生々しい侵入的記憶、フラッシュバックまたは悪夢のような形で外傷的出来事が現前するように再体験されること。これらは、通常強いあるいは圧倒的な感情-とくに不安や恐怖感、強い身体感覚-を伴っている。2)出来事について考えたり想起したりすることの回避、あるいは出来事を思い出させるような活動、状況または人物を避けること。3)現在の脅威を実際より強力に感じ続けること。例えば、過覚醒とか、予期しない騒音などに対する著しい驚愕反応など。これらの症状は、少なくとも数週間は持続し、私的生活、家庭、社会活動、教育、職業、その他の重要な領域における明らかな機能障害を引き起こす。
6B41:C-PTSDは、極度の脅威的なあるいは恐怖の性質を持つ出来事(単回、複数回双方)に曝された後に生じる障害である。最もよく見られるのは、そこから逃げ出すことができないか、それが困難であるような、長期にわたるあるいは反復的に起こる出来事であり、拷問、奴隷化、民族虐殺作戦、長期化した家庭内暴力、反復的な性的・身体的児童虐待などが含まれる。PTSDの診断要件がすべて適用される。加えて、複雑性PTSDでは、重篤かつ持続的な以下の特徴(*)を有している。1)感情制御における問題、2)外傷的出来事に関連した恥辱感、罪責感、挫折感を伴い、自分は貶められ、打ちのめされ価値がないという自己観念、3)対人関係を維持すること、および他者に対する親密感を持つことの困難性。これらの症状は、私的生活、家庭、社会活動、教育、職業、その他の重要な領域における明らかな機能障害を引き起こす。
このようにICD-11では、DSM-5のD項に重なる症候を具体的に例示してPTSDの亜型としてC-PTSDを設定しています。上記の(*)3項目は「自己組織化の障害(Disturbances in Self-Organization;以下DSO)」と総称されています。
ICD-11の改訂の背景には、診断尺度としての妥当性を統計的に裏付ける多数の研究報告がありますが、私見では、治療場面で最初から外傷体験をすんなりと述べることのできるクライアントは決して多くはなく、むしろこのDSOが前景に立ち、うつ病とかパーソナリティ障害とか、アルコールや薬物使用があるものではそちらの方に診断の主軸が置かれてしまうケースが稀ではないという臨床的知見にも由来するものと思われます。
もっともDSM-5のPTSDとICD-11のC-PTSDとは異質のものではなく、おおよそ下図のような相関があります。
ボストン退役軍人クリニックにおいてベトナム戦争帰還者の精神科治療を担当し、ジュディス・L・ハーマンらとともにC-PTSDの診断カテゴリーを精力的に主張したベッセル・ヴァン・デア・コルクが2014年に出版した著作7)は、コルクと仲間たちの30年以上にわたるトラウマ研究の成果を一般市民にも理解しやすい形で解説しただけでなく、著者自身の臨床家/研究者としての半生を綴った興味深い一書です。
その冒頭に登場するのは、まさにC-PTSDの代表例のようなベトナム帰還兵トムです。トムにはもちろん敵兵に攻撃され、死に瀕した体験があり、その体験のフラッシュバックに悩まされてもいるのですが、ここで取り上げておきたいのは、加害者としてのトムの苦渋です。コルクの記述を引用してみましょう。
トムにとって待ち伏せ攻撃の頻繁なフラッシュバックよりももっとつらかったのは、その後のできごとの記憶だった。(中略)身のすくむような恥ずかしさに何か月も向き合ってからようやく、彼はその惨事を私に語ることができた。(中略)歴戦の勇士は戦友が倒されると、言語に絶する復讐行為でそれに応えてきた。トムは待ち伏せ攻撃の翌日、逆上して近くの村を襲い、子供たちを殺し、罪のない農夫を撃ち、べトナム人女性をレイプした。そのあとは、生きて帰郷することの意味を完全に見失ってしまった。 [同書P28]
結果として、帰郷したトムは弁護士としての安定した社会的/経済的地位を獲得しながら、アルコールに耽溺し、自分の妻や幼な子に対して「人でなしのように振舞ってしまう」ことがあり、戦地の記憶がよみがえった時自分がどのように変貌してしまうのかに常に怯えて生活するしかなかったとコルクは記述しています。コルクが参照する他のベトナム帰還兵の治療例にも、トラウマの再体験・フラッシュバック、回避・麻痺、過覚醒というPTSDの三大症候の外に、怒りの制御困難(感情調節不全)、罪責感や恥辱感に伴う生きる意味の喪失感(否定的自己概念)、対人関係困難(とくに親密性をめぐる葛藤や怯え)がしばしば併せ認められ、かれらを孤立や嗜癖的行動に追いやっていました。これらはC-PTSD(ICD-11)の「自己組織化の障害」そのものと言えるでしょう。
戦闘体験や被災体験の中で自分自身、あるいは自分にとって大切な人が死に瀕したり、その恐怖にさらされた場合に、ASDあるいはPTSD症状が現れるということは精神医療関係者でなくても容易に想像できるでしょう。しかし、人が他の人の生命を脅かす加害・攻撃体験もまた深刻な-ときには被害体験以上の-複雑な心的外傷を構成するということは意外に知られていないかもしれません。戦闘とは常に、被害と加害が分かちがたく混在した体験であり、単なるPTSDだけでなく、しばしばC-PTSDを発症させるのです。
コルクは同僚のサラ・ヘイリーの「患者が残虐行為を報告するとき」と題する論文8)を引用して、「兵士が戦争中にとってしまうことの多い恐ろしい行動について語る(そして聴く)ことには耐え難い困難がある。他者から与えられた苦しみと向き合うだけでもつらいのに、トラウマを負った人の多くは、その状況下で自分自身がしたこと、あるいはしなかったことについて感じている恥ずかしさに、心の奥底でなおいっそう苦しめられている」と述べています。
最近の戦争や紛争では、過去のいわゆる「肉弾戦」にさきがけて航空機や遠隔地からのミサイル攻撃が優位になっており、そのような「敵の顔が見えない発砲(攻撃)」に対する心理的抵抗は減弱しているかもしれません。そうだとしても、古今の研究で明らかとなっている「人が人を殺す」ことの強烈な心理的負荷とは、単に立場を代えた際にさらされるであろう恐怖に由来するだけではなく、われわれが利害対立者であっても他者を滅ぼすことにではなく、共存することの方に、生物としては親和的であるということを示すのでしょう。
引用文献
[本コラムは2023年4月発行の翻訳書「Military Psychology(軍事心理学)」内の拙著コラム2を一部修正したものです。」