ふじみクリニック

夏と夏休み-少年時代

2023.7.25


[2023.7月(梅雨明け寸前) 木更津]

ここ数日、ちょっと外出しただけで皮膚が焦げてしまうのではないかと感じるくらい、あつい日が続きました。けれども、どんな季節でもその最盛期には次の季節の色と匂いが滲んでくるものです。明るく高い夏空から容赦なく熱い陽の光が降り注ぎますが、背の高い街路樹が作る木陰を辿れば、熱線をさえぎってくれる木立を渡る風には仄かにシトラスの香りが混じっています。

近年、この季節は熱帯に来たような暑さになります。まず留意しなければならないのは、熱中症などの健康問題ではありますが、夏といえば「夏休み」と連想されるのは、少年のころの思い出がいつまで経っても繰り返し甦ってくるからです。小中学生の頃、梅雨明けとは長い夏休みの幕開けでもあり、暑ければ暑いほど妙に高揚した気分に急かされて炎天下を歩き続けた記憶があります。今回は、筆者のどこまでも個人的な思い出話になりますが、しばしお付き合いください。

昭和40年代、中学生の頃のむかし話です。

入学したI中学校まで自宅から3kmほどの距離がありました。もう半世紀以上前のことになりますが、当時は子どもの数も増える一方の時代でした。I中学は、1学年4~5クラスある区域の小学校が4つ合流した結果、1クラス45人×1学年14クラスで編成されたマンモス中学でした。中途半端な通学距離で、バスに乗っても丁度真ん中地点の国鉄K駅で乗り換えなければならないし、すし詰めのバスに乗るのがいやだったので、大抵歩いて通ったものでした。急がず歩いても40分くらいのものだったし、何より歩けばバスの定期代の半分を小遣いに貰えたので当時の筆者にとっては一石二鳥というわけです。

I中学の位置する町は小学生時代に遊んでいた領域から外れた地域にあり、最初のうち学校の周囲の状況は見当がつかず、帰宅途上、あちこち寄り道してはいろいろな発見をしました。

H川の上流部の風景もその一つでした。今調べてみると、H川は神奈川県三浦半島の中央に位置する大楠山に源を発して、I町、H町、K町と下り、自宅近くを流れる頃には、深く護岸された幅2~30メートルほどの流れになっています。三浦半島のほぼ半分を縦断して浦賀水道に注ぐ流路延長10kmに満たないこの川は、自宅からI中学校への徒歩通学路と並行しており、あるとき、ふとその源流はどうなっているかを見たくなったのです。

梅雨が明け、夏休み間近のある土曜日、授業が終わると、「買い食い禁止」のポスターを無視してパンと牛乳を近くの売店で買いこみ、てくてくと県道沿いに上流へ向かいました。その辺りのH川はすでに川幅も狭くなっており、当時からコンクリートで覆われた暗渠となった個所も多く、何百メートルも上行しないうちに流れの本体を見失ってしまいました。

それでも構わず県道を歩き続け、結構な勾配の坂を小一時間行くと、F橋と記された橋梁に辿りつき、そこで別方向から流れてくる小さな川に遭遇しました。新たな流れは歩く方向に流れていたので、その辺りが三浦半島の脊椎の一部であり、雨水を東京湾と相模湾へと注ぎわける分水領域だったのでしょう。つまりこれはもうH川とは完全に決別してしまったのだと知ったわけですが、引き返すにはどうも物足りない気分で、代わりにその川の行きつく先を見極めてやろうと思いました。

突き刺すような陽射しの中、従兄からお下がりの少々くたびれた茶色い皮鞄をぶらさげて、パンをかじりながら一人で黙々と歩きました。炎天下をさらに1時間ほど歩き、道路沿いの標識に「葉山」の名前を見つける頃には、陽はいくぶん西に傾いてきましたが、新しく見つけた小川は引き続き道路から見え隠れしながら並行して走っていました。源流探しのはずが今は別の川の河口へと向かっている。いったい何が目的で歩いているのだろうと、自分の行動をちらりと訝しくも思いましたが、なに、歩くのに格別の理由も要らないだろうと足を止めずに進みました。ときおり砂利や砂を満載したダンプカーが勢いよく通り過ぎるので、ワイシャツは汗と埃ですっかり斑に染まっています。

暑さは確かに苦痛でしたが、同時に奇妙な心地よさももたらしていたことを思い出します。歩き始めて3時間過ぎくらいでしょうか、長く付き合ってきた県道が国道にぶつかり、「御用邸」の標識が目に入ってきました。つきあたりを左折して松並木を10分も歩くと海岸線に出ました。はじめそんなつもりは全くなかったのに、どの地点からか海岸に出ることを切望していた自分に、そこで気がついたのです。暑く埃まみれの道から解放されて、胸の高鳴りさえ覚えたからです。

海岸に出てみると、波間を渡る潮風は火照った体を心地良く冷やしてくれましたが、歩道を被う乾いた砂粒はざらりと慣れぬ革靴の底を滑らせます。直線的に降り注ぎ身を焦がす西日と波間にうねる反射光とが合体して、ふたたび熱と渇きが身体をじりじりと蝕むようです。その時の夏の光は、輝き、揺れ、伸縮して今でも網膜に焼きついています。波打ち際をぼちぼち歩き、小高い岬の突端まで行って海風を存分に浴びたところで、ようやく引き上げることを決心しました。

ところが、そこからどんなふうに家に帰ったのか、まるで記憶にないのです。

葉山の長者ケ崎や一色海岸からK町に戻るには、また暑い道を往路以上に長い何時間かを歩かなければなりません。同じ道をまた歩いて引き返したとは思えず、だからといってバスに乗った記憶もないのです。あの辺りのバスなど一時間に何本もなかったでしょうし、当時の筆者だったらバス賃を惜しむ気持も持っていたかもしれません。思い返す度に、一体どうやって帰ったのだろうと訝しい思いが抜けません。もちろん携帯電話など存在しない時代でしたから、公衆電話からでも自宅に遅くなると告げてはいたのでしょうか。

海に反射する強い光線の印象の鮮明さに比べて、それらの記憶を探しだせないことが不思議でなりません。

13歳の夏の初めのこの小さな一人旅の後、同じ夏休みの間に、今度は自転車でこの経路を使って葉山の海岸に行ってみたことも覚えています。晴れた日にタオル一本と水筒を持って、同じ道路を葉山の海を目指しました。自転車のおかげで、往路分水嶺のF橋過ぎからは風が海岸まで軽やかに運んでくれました。自転車ならば帰りの時間はさほど気にならなかったので、水平線に沈みゆく夕陽を心ゆくまで眺め続けたこともまた忘れることができません。

それにしても、自身の記憶のいびつさには驚かされるばかりです。筆者の夏は、半世紀たった今も、名もない川と汗と自転車と夕陽が織り重なった塩からい記憶の中に息づいています。