2023.9.28
[2023.9月 上清戸]
“DV”という言葉はもう意外性もなく聞きなれてしまった感があります。DVとは,英語の「Domestic Violence」を略記したものです。「ドメスティック・バイオレンス」の用語については,明確な定義はありませんが,日本では「配偶者や恋人など親密な関係にある,または以前そうだった者から振るわれる暴力」という意味で使用されることが多いようです。配偶者からの暴力を防止し,被害者の保護等を図ることを目的として制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律:平成13年」は,「DV防止法」と呼ばれることもあります。けれども,この法律が施行されて20年以上も経つのに,DVは一向になくなる気配がありません[https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/data/01.html ]。コロナ禍で在宅勤務が増えて以来,より顕在化しやすくなったという調査もあります[https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r03/zentai/html/honpen/b1_s00_02.html ]。
さらに問題は婚姻関係にある男女間にとどまらず,交際中の,あるいは一方的に好意を寄せる男女間の暴力/性暴力が事件化し,悲惨な結末が報道されることも珍しくはありません。今回はいささか暗い話題になりますが,当初はお互い相手への愛情を感じていたはずなのに生まれてしまう暴力について考えてみたいと思います。
少し長い解説になりますので,3回に分けて掲載します。
「親密性」という言葉には,「仲の良さ」,「相手に対する配慮」という意味が含まれていますから,相手の身体,意思,感情を傷つける行動を意味する「暴力」とはほんらい相容れないものです。しかし現実には,とくに異性間において,仲よくなったあと独占的に相手を支配しようとして,相手が僅かでも意に沿わない行動をとると暴力をふるう男性(*)が存在します。
*古今東西,異性間暴力の加害者は圧倒的に男性パートナーであるので,本コラムでは女性が男性に行使する例外的暴力事例にはあえて触れないでおきます。
相手に暴力を振るわれたら,女性の方もすぐに逃げて警察に訴えるとか,家出してシェルターに駆け込めばよいと考えるのが普通でしょう。それなのに,なかなか家から逃げなかったり,訴えることをためらったり,ときにはいったん暴力男から逃げてもまた同じ男のところに戻ったりする女性も決して珍しいとは言えません。さらには,ようやく暴力をふるう男と別れることに成功したはずなのに,次に出会い関係を結んだ相手もしばらくすると同様に暴力的な男であることが判明するといったケースにも稀ならず遭遇します。通りすがりの暴力被害と一定の親密関係を結んだ男女間の暴力とは,どこがどんなふうに違うのでしょうか。
次のような仮説が,ある程度検証されています(7,9)。
A)暴力を関係保持の方法として用いる男の側に主要な問題(病理性)がある。
B)暴力をふるわれても逃げない女,暴力をふるう男と何度もパートナーシップを結ぶ女の側にも問題(病理性)がある。
C)ふだんの生活や人間関係においては必ずしも暴力的ではなかった男性と,暴力許容的ではなかった女性が,親密になることで(とくに性的親密性を共有することにより),その関係の中で暴力が誘発されやすくなるケースがある。
これらの仮説は重なり合うものですが,ここでは,とくにCのプロセスについて考えてみます。したがって,もともと暴力的なあるいは反社会的な傾向の強い男性,暴力が関係を規定することを是認するアウトローの集団に属する男性が自分の性格や出自を偽って女性に近づき,女性を計画的に力づくで支配下に置き,そこから逃がさないというタイプの,犯意が自覚されたバイオレンスについは触れません。
夫婦や恋人関係の中で起こる暴力と,例えば金銭目当ての通りすがりの暴力犯罪とは同質のものでしょうか。暴力行為という結果だけから見れば,両者に大きな違いはないようですが,親密性を背景として生じる暴力では,加害者の側に自分の暴力を正当化する理由が用意されているように見えます。それは,「自分がこれだけ愛しているのだから,相手も同じだけ自分に愛情を向けるべきである」という,一方的な「所有の意識」を基礎とした独占欲に由来しています。
暴力をふるった後の加害者の反省や悔恨の態度のうちにその純粋性と孤独感を読み取り,加害者の「きみがいなければだめなんだ」といったお決まりのセリフに「必要とされる欲求」の充足感を体験する女性,彼を癒すことは自分にしかできないという万能感を刺激される女性(5)は被害者の立場から脱け出しにくいということでしょうか。この両者の間には,恋愛感情のような「激しい感情は,それにふさわしい激しい表現を伴うものだ」という一種のイデオロギー(8)が共有されており,暴力は愛情表現の一つであるという倒錯が生まれてしまうからでしょう。