2023.2.3
[2025年1月 狭山市]
2月に入りました。
昨年暮れから年明けにかけて晴れわたった明るい日が多かったところ、ここ数日は久しぶりに空に厚い雲が覆いかぶさり、冷たい雨に身が竦む思いでした。それでも筆者が家を出る(やや早い)時刻の空は少しずつ明るくなり、帰宅する道筋では茜色にくっきりと輪郭立つ地平線に出会うことができるようになりました。
閑話休題。
今回は少し力を抜いて、正月休みにDVDを再見した映画の感想を述べたいと思います。
2009年公開の西川美和監督の「ディア・ドクター」です。主な配役は、笑福亭鶴瓶、瑛太(2020年に本名の永山瑛太に改名)、余貴美子、松重豊、そして八千草薫さんなどです。
* 本作は15年も前の作品ですが,DVD版はまだAmazon等でも購入できますし、ネット配信もされているようです。可能な読者は作品をご覧になってからお読みになると、読者ご自身の考えが整理されるでしょう。
地域医療体験プログラムをこなすために赴任した研修医の相馬(瑛太)が偽医師の伊野(鶴瓶)を称賛した発言に対して、伊野は吐き捨てるように応えます。
― そんなんちゃうわ、この村の人たちは、足らんことを受け入れているだけや。
このようなアフォリズム(箴言)的発言は、乱暴な語り口であるほど、むしろ伊野の存在に深みを与えています。そして確かに伊野の診療には、通常の医師が置き忘れている真の献身性や、病を抱えた人を社会内存在として診ることを重視する態度があふれているように思われるのです。
けれども、本作のキャッチコピー(『その嘘は、罪ですか。』)につられて《伊野は、本当の医師以上に医師に求められる資質を体現している、制度違反を侵していたとしても、伊野は悪くない》というような理非善悪を判断することは、本稿ではとりあえず棚上げにしておきたいと思います。
この映画を観て喚起された筆者の関心は、「ほんもの(オリジナル)」とは何か、ほんものと「にせもの(模倣/コピー/贋作)」とはどんな関係にあるかということでした。以下、この個人的関心に沿って考えていきたいと思います。
棚田の広がる山あいの村。中年医師、伊野治がひとり切り盛りする診療所に、東京から研修医の相馬が実習生として赴任した。風邪やけがから、お産、糖尿、予防的健康相談まで一手に引き受け、急患となれば時間を問わず駆けつける伊野。その献身的な仕事ぶりを目の当たりにして共感を覚える相馬だったが、年老いた独り暮らしの寡婦鳥居かづ子(八千草薫)の病状を医師であるその娘りつ子(井川遥)に説明したことをきっかけに、突然失跡する。その後彼の長年の嘘が明るみに出る。
地域医療の実習として、同僚との「くじに負けて仕方なく」やってきたはずの相馬が、赴任して時を経ずに称賛せざるを得なかったように、伊野は24時間勤務を厭わない仕事ぶりで住民に篤く信頼されています。自分に対応できそうもない患者は早々に町の病院に移送する常識もわきまえています。深夜まで自学自習を重ねている様子も繰り返し描かれています。
後半に現れる女性医師、鳥飼りつ子に対するその母かづ子の病状説明に際しても、医師ならば突っ込んでくるであろうポイントをきちんと予測して、相手が納得できる理由を用意しているのだから大したものです。しかもりつ子への彼の説明は、娘には癌であることを知らせないでほしいというかづ子に懇請された偽りの説明であったのだからなおさらです(いうまでもなく、事実を説明するより難しい)。
なんだ、医者なんて誠意と注意力とコミュニケーション能力(これらはいわゆる「きちんとした大人の資質」)、それにいくらかの学知があればできちゃうんだ、と観客が感じたとしても不思議ではないでしょう(ほんとにそうかもしれないし)。それどころか、相馬が自分の父を批判したように、経営とお金の勘定ばかりに身をやつしている当今の医師と比べたら、はるかに医者らしい人物がそこにはあるようです。
この「医者らしさ」とは一体どのようなものなのでしょう。狭義の医学知識・技術を身に着けていることを前提として、冒頭に触れたような献身性、患者(痛みをもった存在)への深い共感能力、きっぱりとした倫理意識などを挙げて反対する人はほとんどいないでしょう。伊野は少なくともこの後半の、患者に向き合う姿勢を保有していたのでしょうか。そうだとしたら、彼は半分(かそれ以上)はホンモノであったと言えるのでしょうか。
物語の中盤以降、伊野の素性が明かされていきますが、伊野自身の語りは見過ごせません。
― (病院など医師集団の中で周囲に気を遣いながら仕事する)面倒は嫌いでこの村に流れてきた。カネになるし、(重い)病人が出たら町に送ればいいことやし、楽だと思って来た。でも球が飛んできたから仕方なく打ち返した。いったん打ち返したら、次から次へ飛んできて逃げれんようになってしまったんや。
本人のこの説明は筆者にはとても腑に落ちるものです。それではやはり伊野は「逃げそこなったニセモノ」にすぎないのでしょうか。半ば共謀者ともいえる薬屋の斎門(香川照之)の刑事に対する説明も至極わかりやすい。
(伊野が偽医者になった動機について)刑事(松重豊)が斎門に「まさか過疎地の住民に対する『人間愛』からだとでもいうんですかね。」と皮肉っぽく言ったとき、斎門がふっと気が抜けたようになり、椅子のまま後ろに倒れこむ。びっくりした刑事はあわてて助け起こそうとする)
― (抱きかかえられながら目をパチリと開けて)ほら,刑事さんどうして私のこと助けようとしたんですか?
私のこと愛しているわけじゃないでしょ・・・ほっとけなかっただけでしょ・・・
無意識の内に刑事の手が差し出された ― このような振る舞いは、どのようなものにせよある理念や思想を持ち、その理念に基づいて理性的に/計算づくで選択されたものではないと斎門は言っています。そうではなくて、そこに倒れかかった人を見かけたとき、意識しないままに手を差し出していた、思考の結果ではなく、自然発生的な、自身の感覚的な変化に反射的動作がつき従ったというプロセスです。このような感覚を孟子は「惻隠の情」と呼びました。
この世の中に、原初の時代からあらかじめ医師という特殊な職業が存在したわけではありません。当初惻隠の情に駆られて偶然健康問題に関わった人が、頼まれ請われて仕方なく経験を積む中で、その中の一部の人は洗練された技量を保持するに至ります。そういう人が次第に周囲の人々の承認と信頼を獲得し、最終的に大衆がその人を医師(最初は別称かもしれませんが)と名づけることに到るという流れがあるのではないでしょうか。これは何も医師だけに限らず、「専門職」と言われる仕事が成立する一般的なプロセスかもしれません。