2023.2.3
[2025年1月 伊東市]
さて、斎門が示唆したように、「惻隠の情」に動かされて伊野は医業に手を染めたとしましょう。描かれてはいませんが、最初はあえて医師を名乗ることもなく風邪薬か何かを身寄りのない(あるいは認知症の)老人に分け与えたあたりからことは始まったのかもしれません。数日後、その老人は再会した伊野に、快癒したことを感謝を込めて報告し、「先生のおかげで」などと勘違い(?)の発言をしたのかもしれません。刑事が調べたところでは、伊野は医師の息子として生まれ、かつて医学部をめざしたことがあり、医療機器メーカーの営業スタッフの経験があるとされていますから、ふつうの人よりも医療の世界に通じており、また果たせなかったかつての夢を再び燃やさんとする個人的欲望を想定することもできないわけではありません。
しかし筆者は、冒頭に述べた筆者自身の関心を優先して、伊野の個人的背景よりも、刑事が研修医の相馬や看護師の大竹(余貴美子)を批判的に追及した言葉を重視したいと考えます。
― だれもまともに話聞いてない。伊野をホンモノに仕立て上げようとしていたのは、あんたらのほうじゃないのか。
伊野は偶然のきっかけで医者になりすました。しかしそれを持続させたのは、周囲の(暗黙の)要請による力が大きかったのではないか、と刑事は言うのです。もちろん、伊野自身の個人的動機、相応の知的資質、知識を吸収する努力はいずれも、伊野の無資格が暴露されることを防いだことでしょうが、住民の疑いの視線の中であったとしたら、こんな伊野であってももっと簡単に馬脚を現していたにちがいないと思うのです。
その場所で医師が求められていた。そして求められていた医師は、庶民的で寒村の文化に溶け込む雅量を備え、献身的である人。伊野は求められているものが何たるかを察知し、それに合わせる繊細な感受性をもっていました。話の初め、赤貝をのどに詰まらせて呼吸困難に陥っていた老人を往診したエピソードに際して、立場や世代を異にする家族メンバーや親類縁者それぞれの思惑をその態度から瞬時に把握して、大げさに大往生を演出する役回りを伊野は的確に演じているのです。
これはしかし、並大抵の気力と努力によって演じ続けることのできる役割ではないとも言えます。「一度打ち返してしまったら」、偶像化された立場からはノーということができない。伊野は一種自縄自縛の罠にはまりこみつつ、求められた役割に時々刻々同一化していったように見えます。
物語の終焉は唐突に訪れます。
子どもたちが街に出て、夫とも死別した老婦人かづ子の胃癌をその娘に胃潰瘍と虚偽の説明をなした後のことです。それは伊野が医師としての振る舞いに齟齬をきたしたからではなく、その逆に、医師として求められる通常の役割を果たした結果として訪れます。
ここでは患者の要請を受けて真の病状をその家族に伏せたという行為の正しさを、法的・制度的視点から評価することも控えたいと思います(そんなのわかりきった答えになるからです)。
伊野は患者に寄り添い、患者の真の幸せについて自問し、独学とはいえ病の進行具合と予後を推定して、自分の行為を総合的に判断したはずです。もちろん「病の進行具合の評価と予後の推定」は、正統な知識経験を確証されていない「偽医者」が行ってよい行為ではありませんが、伊野の医学的評価・判断のプロセスはそれなりにきちんとしたものとして描かれているのです。
もちろん現代の生命倫理の動向を踏まえれば、伊野の行為は、病の当事者のオートノミーだけを尊重した偏向した態度であるとの誹りを免れないでしょう。われわれなら、伊野と同じ評価判断を下したとしても、鳥飼かづ子のように自己決定能力の保たれた患者(competent patient)であればこそ、患者自身の意思を尊重しつつ、積極的治療を放棄したいという患者の意志を家族に伝えることを勧め、その仲介役を担えることをしっかりと説明し説得を試みるべきでしょう。しかし伊野は、無防備にどこまでも患者の言葉だけに添おうとするのです。
懇切な(偽りの)病状説明に首尾よく納得してくれた医師りつ子に伊野は、次にいつ患者に会いに来ることができるかを問い、それはたぶん一年後くらいになってしまうだろうと聞かされて愕然とする。
そして ― 逃げた。
道すがら、薬屋の斎門にかづ子の本当のデータ(内視鏡所見や病理検査等の結果)を託して、伊野はひたすら遁走するのです。かづ子の心情を斟酌したうえでの自らの虚偽の説明が、残された時の僅かな親子をかえって遠ざけることになるとは。最後まで「医者」たらんとした伊野には、もはや逃げるしか方法はなかったのです。
やれやれ。
以上の記述は、本作を徹底的に内容から辿ったものです。
最後にもう一度「ホンモノとは何か」について問いなおしてみたいと思います。
最初伊野は医者を模倣/演技したのだと思います。既に保有していた知識に新たな医療の知識・技術を付け加えるだけでなく(でも内視鏡なんてどこで学んだのだろう)、患者との関係において真に求められていることを想像し、試行錯誤を繰り返す実践によって模倣の精度は高まっていった。そして狭い地域共同体の住民と伊野の欲望との共同制作によって、模倣された役割を果たした存在はその共同体に定着し、偶像視されていった。
このように経緯を考えると、模倣という行為には、その語意と裏腹に創造的意思がはらまれているように思われます。伊野は医学テキストから知識を習得していました。しかしその知識はあくまで素材であって、より医師らしい医師、失敗のない医師を演じるためには「演じている」のでは不十分であると悟る瞬間を何度も体験したのではないでしょうか。歌舞伎の女形がしばしば生物学的な女性以上に女らしさを体現していること、当事者(ホンモノ)が自覚していない「女性としての特性」を自覚的に身につけていることはしばしば指摘されることです。「本物らしくあろうとすること」をつきつめると、それは「本物になりきること」を通じてしか達成できない。そこにおいて「模倣」と「本物」は、制度的・人為的な薄皮一枚でかろうじて隔てられているにすぎないと思うのです。
つまり伊野はすでに本物の医者以上に医者らしくあったのです。だからわれわれは、伊野のあり方に共感しやすく、そこに医師たる本質を観る気がするのではないでしょうか。患者の娘のりつ子が刑事に投げかけた最後のセリフが示すように。
― ときどき考えるんですよ。あの先生なら、どんなふうに母を死なせたのかって。もし捕まえたら、聞いといて下さい。
看護師役の余貴美子がよかった。「おくりびと」(滝田洋二郎監督,2008)に出演したときと同様の演技ぶりで、飄々とした一種「世捨て人」のような風情を漂わせた態度の底に、自分のコアは譲らない(必死の/健気な)、最後の砦は守り切るという気丈さに魅かれてしまいます。
それから、偽医者であったことが露見してから鳥飼かづ子(八千草薫)が決して伊野をかばわなかった筋立てが小気味よい。本作でかづ子のセリフは少ないものの、「すべてをわきまえた人」として、無言のまま観客に一種の安らぎを感じさせてくれます。きっと医者の娘をはじめとして,伊野に騙されたふりをしている方が幸せになる人が多いと悟っていたのではないでしょうか。