ふじみクリニック

深刻な心的外傷体験はなかなか言葉にできない(3)― 飛行機事故サバイバーのケースから ―

2023.3.4


[2025年3月2日]

4 終わりに ― マックスのトラウマと「トラウマからの回復」とは ―

一本の映画からすべてを理解しようなどとは不遜な態度であろう。しかし印象深く腑に落ちた点をいくつかあげたい。

第一に、深刻な心的外傷(トラウマ)を語るのはひどく難しいということである。本作に描かれたような航空機事故がひどい心身の苦痛を引き起こすであろうということは誰でもわかるだろう。その後の一定期間様々の心的後遺症に悩まされるであろうことも容易に想像がつく。だから周囲の人間は「同情」し、被害者を優しくいたわるだろう。少なくとも一定期間は。被害は「共有」されるはずだ。被害を受けなかった人間はそう思うのではないだろうか。

しかし本作からうかがい知れることは、実は被害体験は真には「共有」されえないということだ。同じ機中で事故に遭ったはずのマックスとカーラでさえ、「傷」の実相は異なっている。「手を離した」ことによる罪の意識(サバイバーズ・ギルト)を背負っているという共通点は存在するが、わが子と友人とでは喪失の意味は違うであろうし、彼らがそのときそこでどのように振舞ったかによっても「死に損ねた」理由は一人一人異なってくる。このような可視化されやすい飛行機事故においてさえ、被害者各人の心の傷は徹底的に個人的なものなのである。そして、被害者自身、自分の体験のどこがつらいのかということを俄かに自覚することができない。表現できない「空白」、底の見えない「穴」の周囲をぐるぐると回り続けるだけである。いわんや非体験者の想像が被害者個人の痛みに到達することの困難性をや、というところである。

元神戸大学教授の中井久夫は次のように言う。

「外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。(中略)PTSDの発見困難はむろん診療者の側の問題でもある・・・しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密に土足で入り込まれたくない防衛感覚である。」
(トラウマとその治療経験:所収「徴候・記憶・外傷」みすず書房,2004年,p96)(強調筆者)

それではわれわれはどのようにトラウマを言語化できるのだろうか。
フェミニスト理論家のショシャーナ・フェルマンは次のように書いている。

「トラウマはそのものとして思いだすことができない以上、そのものとして『告白』することもできない。トラウマは証言されなければならない。語る主体が所有していない-所有することのできない-何かを回復するために、語り手と聞き手が分かち合う、ある種の絡み合いを通じて」(Shoshana Felman,What dose a woman want ? Reading and sexual difference,The Johns Hopkins University Press,1993,p16)

トラウマを心の外に形あるものとして表現するには他者の力が不可欠である。その他者とのあいだで紡がれたトラウマをめぐる語りが「事実/真実」であるか否か検証することはできないとしても。おそらく、そこで語られた物語が「真実」に近いほど、「心の穴」を上手に蓋することができるのかもしれない。そして少なくとも蓋に覆われた間、われわれは穴の底を覗きこまずにその後の人生をおくることができるのであろう。

マックスの危険への自己投企の初めはイチゴへの挑戦であった。イチゴの艶やかな赤い色は血の色であり、危険の象徴でもある。小説などの言語産物と異なり、映像とはこのように言葉にできない象徴的表現をもって観客の想像力を鋭く喚起することができるという点も指摘しておきたい。

(おわり)