ふじみクリニック

好きでも嫌いでもない関係

2025.5.26


[2025年5月26日]

4月のコラム記事「年度替わりとメンタルヘルス」に、何人かの読者から感想を寄せていただきました。職場にせよ、学校にせよ、集団の中で適度な対人距離を保つということは、言うほどやさしくはないということでしょうか。その続編として思いついたのは「好かれる努力、嫌われる勇気」という表題でしたが、ちらりとネットを見ていたら、同じ題名の書籍がありました。その本[岸見一郎,古賀史健著「嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え-」,ダイヤモンド社,2013]を筆者はまだは読んでいませんが、なるほど、かのアドラー先生(Alfred Adler:1870~1937:健全な発達とは共同体感情〈Gemeinschaftsgefühl〉を育めるか否かということにかかっていると提唱した)もそんなふうに仰っていたのですね。

二人の老人の話にもう一度耳を傾けてみましょう。

白髪老人
(以下「白」)
やあ、つるさん。元気かい。畑には作物が実り始めたし、おひさまが照ると暑くなったね。
つるりん老人
(以下「つる」)
ほんとに。けれどその翌朝には冷たい雨が降って10℃近くも気温が下がる日もあるから、年寄りにとっちゃ油断できないね。
暑いのも寒いのも、すっかり弱くなっちゃったよな。
つる 悲しいことに。
この前二人で話したことを聴いてる人がいてさ、やっぱり人間関係難しい、ってしみじみ思い直したって言ってたよ。
つる たしかに。この前はADさんのご意見を拝聴して、「他者とはかんたんには理解しあえない」とか「『わからない』から始めて、少しずつ『相互理解』に進むこと」なんて話してもらったけど、「わからない」ままじゃいけないってことなのかね。
じゃ、もう一回ADさんにお出まし願おうか。
孤独が好きな人/孤独に耐えられる人
AD はいADです(AIではありません)。お呼びになりましたか。
今回も素早いね。
またひとつ解説お願いできるかな。
AD 私がお話しできる範囲でしたら。
どうしても折り合えない人っているよねえ。
つる 一人でいることが好きな人もね。
AD 心を病むことなく相応に成熟した人の中にも一人でいることが好きだという人は存在します。そういう人(「孤独好きな人」というに限らず、「孤独に耐えられる人」と拡張して考えてもよいでしょう)とは、じつは心中に他者を深く内在化しているのです。「内在化」っていうのは、当初他者からいただいたもの(考え方、振舞い方、思想、嗜好、価値観、生き方等々)であるけれど、それらが自分の一部として心の中にしっかりと組み込まれているということです。
ここでいう他者とは、その人を十分に受容し肯定してくれた信頼できる人であり、理想化対象にもなっているような他者のことです。
つる おっと、いきなり話がむずかしいね。
他者って、親とか、学校のセンセイとか・・・?
AD そうですね。おじいちゃんとかおばあちゃんのことも、叔父さんとかちょっと離れた血縁者であることも、お世話になった学校や塾の先生たちということもあるでしょうね。また実際に日々接した人だけでなく、書物や映像を通じて知ることができた存在が組み合わさっている場合もあるでしょう。
つる で、孤独が好きな人っていうのは、学校とか会社で孤立してしまわないのかい。
AD そういう人は、ひとりでいることが好きであっても、他者と協調的に過ごすことができないわけではありません。学業であろうと仕事であろうと、チーム作業ができないわけでもありません。
一方、雑談のなかであっても、他の人に迎合してその場を取り繕うように発言したり振舞ったりすることは好きでなく、自身の優位性を争う傾向のある集団の中で優位に立ちたくて何かを語ろうとは思わないのです。
自分が価値あると信じられる仕事や活動に勤しみ、なすべきことをなしたと確信したならば、必ずしもその結果が上司や同僚から十分な評価を得られなかったとしても、それほど落ち込むことはありません。自分の信じた行動を淡々と続ける行き方をする人たちでしょう。
雑誌とかネットとかでときどき書かれている「ナルシスト」なんかと、ちょっと似てないかい。
自己愛パーソナリティ者
AD 白さん、詳しいですね。(“ナルシスト”というのはやや不正確な表記で,英語〈narcissist〉をカタカナ表記するとナルシシストとなります。)
精神医学では、米国発の国際診断基準(米国精神医学会:DSM-5 TR,2022)に、たしかに「自己愛性パーソナリティ症」という区分があります。ちょっと長くなりますが、筆者が抄訳したその診断要件を列挙しておきましょう。

自己愛性パーソナリティ症の人は、自分の価値について過大評価し、賞賛されたいという欲求や共感性の乏しさが持続的に認められる。具体的には以下の5項目以上が見られるときに診断される。
• 誇大性:自分の重要性や才能について、誇大な、根拠のない感覚。
• 自己に関する空想/幻想:途方もない業績をなした、大きな影響力、権力、優れた知能、美しさなどを保有している、または素晴らしい恋をしているなどといった-。
• 自己の特別性の確信:自分が特別で唯一無二の存在であり、最も優れた人々とのみ付き合うべきであると思う。
• 賞賛欲求:他者から無条件に賞賛されたいという欲求。
• 根拠のない特権意識。
• 他者搾取性:自分の目標を達成するためには他者を利用してもよいと考える。
• 共感性欠如。
• 他者を嫉妬/羨望しており、同時に他者が自分を嫉妬/羨望していると思う。
• 傲慢かつ横柄である。
*それぞれの症状は成人期早期までに始まっている。
つる なんか、めちゃくちゃいやな奴だね。
AD この基準にぴったり該当する人なんて、そんなに多くはないでしょうね。でも欧米でこんな基準が作られたのは、そういう人がたしかに一定数いるってことでしょう。まあ日本だって、一定の権力や富を保有した人とか有名になった芸能人やスポーツ選手など(いわゆる才能型の自己愛性パーソナリティ者)に、こんな傾向が垣間見られることもありますけどね。
それでさ、ナルシスト、いやナルシシストだっけ,それと「孤独が好きな人」との関係は?
AD 最初に「相応に成熟した人」と言いました。そういう人と「自己愛性パーソナリティ症者」との区別は,実際的にはそれほど難しくありません。
上に列挙した基準を満たすような、「病の領域に達するほどの自己愛的な人」は、客観的にはたいした成果を上げているわけでないのに、他者からの評価を追求し,それが叶わないと被害的となり,しばしば怒りにうち震え,他者を非難し、貶める発言をなすのが常だからです。ひと皮むけば、常に他者からの評価や賞賛を得られないでは立ってもいられないほど自信のない弱々しい本質が見えてくるものです。うまくいかないことがあると、それを自分の行動の結果として引き受けられないので、何かの/誰かのせいにせざるを得ないのです。
もっとも、初対面の時から「上から目線」で傲慢な態度を示すとは限りません。時には過剰にへりくだった態度を示したり、相手を褒めそやしたり、それこそ「嫌われないために」必死に努力しますが、相手が即刻好意的に応じないと、ひどく傷つき、侵害された気分に陥り、一転して攻撃するようになるのが一つのパターンです。

一方、「成熟した孤独好みの人」は、心中に自身のなしたことを自己評価する秤を持っているので、多少の理不尽さを含んだ他者からの評価に揺らぐことはないのです。
自分の働きの成果が正当に評価されないのみならず、生活に支障が生じるような事態にさらされれば、彼(女)は粛々とその場を去ることになるのでしょうね。
つる ええっ、何も異議申し立てしないで姿を消すっていうのかい。
AD いえ、そういうわけではないんですが。
なにも言わずに/相手の理不尽を咎めることなく/戦いを一切放棄して,その場を立ち去ることが正しい在り方だと言いたいわけではありません。そうではなく、エネルギーを使って戦うのにふさわしい事態、戦わざるを得ない状況であれば、いくら孤独好きの彼(女)だって声をあげるでしょう。
ただ、自己愛パーソナリティ者のように、口角泡を飛ばして相手を無根拠に罵倒するのではなく、反抗のための材料を集め、冷静に論理を組み立て、その論理を無視されない第三者を探して立ち会わせたうえで、静かなる闘争を繰り広げるのでしょう。
つる それならよかった。
でも、そっちの方がどこか不気味な感じがしないでもないけれど。
好かれる努力、嫌われる勇気
AD 今まで述べてきたことは、「好かれる努力,嫌われる勇気」の前段階の話です。上述のような「相応に成熟しかつ孤独を愛する人」というのは,自身の中に深く内在化された他者の力を借りた自身の秤(≒健康な自己愛)を持つがゆえに,他者の評価に過度に依存しないで振舞うことができる,ということを述べたかったのです。
健康な自己愛ね。たしかに自分のことが嫌いだったり、いつも自己卑下的な態度を取ったりするのはよろしくないとは、わかるけど。
つる 自分というものを概ね客観的に見ることができた上で、ほどほど自信がある人。自分の価値観を信じ、自分の選んだ生き方を認めているけれど、偉ぶらない、他人を見下さず自分と違った生き方を承認できる人。しかし何をするにも他人とつるんで一緒に行動するのではなく、一人で自由気ままに行動するのが好きな人、みたいなものかね。
AD すばらしい。つるさんの要約された通りです。
そうだよ、まさにつるさんみたいな人。
つる ほめ殺しはやめて。白さんの方こそだよ。
しかし、「好かれたい」という思いと「嫌われたくない」という思いは必ずしもイコールではないような気がする。
AD 鋭いですね、白さん。
そのような孤独を愛する人だって必ずしも「人嫌い」というわけではないのです,誰かと出会えば、嫌われるよりは好かれたいと思うでしょうね。 ただ、自分が好きな/敬意を以て関わりたいと思える人から尊重されることを望むことはあっても,そうではない人から好意を示された場合には、当惑していくらか身を引くのが当然でしょう。
そうした場合、こちらから身を引かれた相手が成熟した大人ならば,「ああそうなの、それじゃね」と,相手も通り過ぎてゆくか、あるいは相応の距離を置いた中立的関係を双方維持することになるでしょう。
未熟な人だったら・・・?
AD その相手が未熟な人であったり,健康な自己愛が育っていない人であった場合,どうして自分の好意を受け入れないのだと憤慨したり,「嫌われた」理由をあれこれ詮索して抑うつ的になったりするかもしれません。
そういう人が一時的にせよ好意を表明するのはしばしば、「相手のことを本当に好き」だからではなく、「(誰からも)嫌われたくない/否定されたくない」からであり、自分が提示した「好意」を受け取らないのは相手が自分を嫌っているからだと考えがちなのです。 「好き」と「嫌い」の間に,「好きでも嫌いでもない」という他者に関する関心のあり方が存在することを理解できない、というより感情的に受容できない。
つる なるほど。おれにもだんだんわかってきたよ。
ADさんが言う「嫌われる勇気」ってのは、「反論されても/嫌われても、自己主張するべきだ」、「相手を論破することだ」、という考えというわけではないんだね。
ほどほどの/好きでも嫌いでもない関係を愉しむ
AD 白さんのいうとおりです。「好きでも嫌いでもない」という関係を愉しむことが人間関係を円滑に、楽にすることができる-そんな考え方なのです。自分が尊重できない人から尊重されなくても、その人と仲良くなる必要はないのだから、泰然として自身の選んだ道を歩み続けられる人でありたいということです。
つる 失礼ながら、聴いてみれば当たり前すぎることだね。
“生涯の親友”なんて一人か二人か、そんなもんだし。
この前話したみたいに、仕事や何かで共同作業するにしたって、相手と一から十まで同じ考え方や振舞い方なんてできっこないんだし。
ADさん、今日の解説で、「成熟」とか「未熟」って何度か言ったけど、人間の成熟ってさ、どんなことかな。
つる おれもそれが聴きたい。
AD それは実は大問題です。
相手の立場を十分に思いやることができる共感性とか、利他性とか、義務や責任を果たすことができるとか、常識をわきまえていることとか、「成熟していることの現れ」をいくつも列挙することはできますが、その本質や成立プロセスをひと言で説明することはできません。次の課題としてとっておいていいですか。
つる/白 そいつはぜひお願いしたいところだ。